真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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1.懺悔文

原文
我昔所造諸悪業 [がしゃくしょぞう しょあくごう]
皆由無始貪瞋痴 [かいゆむし とんじんち]
従身語意之所生 [じゅうしんごい ししょしょう]
一切我今皆懺悔 [いっさいがこん かいさんげ]

訓読文
我れ昔より造る所の諸[もろもろ]の悪業[あくごう]は、
皆な無始[むし]の貪[とん]瞋[じん]痴[ち]に由り、
身[しん]語[ご]意[い]従[よ]り生[しょう]ずる所なり。
一切を我れ今[いま]皆な懺悔[さんげ]す。

現代語訳
私が昔からなしてきた様々な悪しき行いは、
すべて始まりもない太古からの貪りと怒りと愚かさを原因として、
身体と言葉と心によってなされたものである。
それら全てを私は今みな懺悔する。

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2.解説

懺悔文とは

懺悔文[さんげもん]は、その「懺悔[ざんげ]」の文字が示すとおり、自分の今まで犯してきた悪い行いやあやまちを告白し、悔い改めることを述べた文言です。これは『華厳経[けごんきょう]』の一説を抜き出した経文です。

今も華厳宗中興の祖とたたえられ、日本仏教史上に重大な影響を与え続けている、かの偉大な高僧、栂尾の明恵上人[みょうえしょうにん]がそのご臨終の直前、この懺悔文を閑かに唱えられ、息を引き取られたことが、その伝記に伝えられています。

はるか昔からの

我昔所造諸悪業の、「我」は言うまでもなく、自分自身のことです。「昔所造」は、「昔から造ってきた」ということです。昔から、といっても、今の自分が生まれてから今まで、というだけではありません。仏教には、輪廻転生[りんねてんしょう]という世界観があります。ですから、生まれ変わり死に変わり、色々な生を受けてきた、ずっとずっと昔から、という意味です。いわゆる「前世から」を意味します。

しかしながら、現代では「輪廻転生・前世など非科学的でナンセンス」だ、と考える人が大半のようです。ですから、そのような方はとりあえず、今の自分が生まれてから今まで、と考えてもいいでしょう。

「諸悪業」とは、「多くの悪い行い」を意味しています。悪業[あくごう]とありますが、これは「結果として自分、または他者に、苦しみをもたらす行い」を意味します。まとめますと、「自分が、ずっと昔から行ってきた、多くの悪い行いは、」ということになります。

皆由無始貪瞋痴の、「皆」は先ほどの「多くの悪い行い全て」を指します。「無始」とは、「始まりが無い」ですが、これは仏教の世界観、輪廻転生を表した言葉です。「この世界は、神などの何者かが造ったものではなく、いくら過去にさかのぼってみても、始まりなどけっして知り得無いものである。世界は誕生と滅亡とを、愚かさによって、いたずらに無限に繰り返している」と、仏教では考えるのです。

三毒

貪[とん]・瞋[じん]・痴[ち]は、それぞれ貪り・怒り・愚かさという、生命の三つの根本的煩悩であり、仏教ではこれを三毒[さんどく]と呼んでいます。よって、この一文は「すべて、始まりもない過去からの、自分の貪りと怒りと愚かさの、三つの毒のような煩悩から起こったものであり」という意味になります。

従身語意之所生は、さきほどの二つの文章を受け、「身体と言葉と心によって行われてきた」という一文になります。

ちなみに仏教では、人間の行為を、身体と言葉と心の三つに分類し、これら三種類の行いを三業[さんごう]と呼びます。

現代において、業[ごう]などと聞くと、なにやら悪い言葉のように、思われる人がいるかもしれません。それは、日本語の中に「業が深い」、「業を煮やす」、「業腹[ごうばら]だ」などといった、主として悪い意味で用いられている言葉が、多数あるためのようです。また、近年の宗教離れによる、伝統的な仏教の説や述語への無理解が進んでいることも、その大きな一因に違いないでしょう。

しかし、業という言葉自体には、Karma[カルマ]というサンスクリット、あるいはKamma[カンマ]というパーリ語から漢語に翻訳された言葉で、「行為」といった意味しかなく、良い悪いといった意味はありません。

ジッとすることのない心

さて、我々は時として、「今日は暇で何もしないで、ただボーッとしていた」等と言ってみたりするものですが、「何もしない」と言うことは基本的に考えられない事だと、仏教では考えます。

私たちは、身体は何もしないでジッとしていても、口では色々と言ったりします。また、身体もまったく動かさず、言葉も全く発しないときでも、心は色々思ったり考えたりして、実にせわしなく活動しています。そしてまた、例えば惚[ほう]けていたり気絶したり寝ていたりしているときにすら、心だけは決して休まずに、いわば無意識に活動している、と考えるのです。

さらに、それら私たちの身体と言葉と心は、意識的にせよ無意識的にせよ、みずからの根源的愚かさに基づいて、さまざまな悪い行いと(多少は善い行い)を積み重ねてきたと考えるのです。そのようなことを、この一文は示しています。

一切我今皆懺悔の、「一切」は「今までのこと全て」、「我」は、言うまでもなく、まさに今ここに生存しているこの「自分自身」の意です。それが、「今」ここで、「皆」すべてを、「懺悔」する、というのです。もう説明するまでもないかもしれませんが、この一文の意味は、「自分の行ってきた、あらゆる悪い行い全を、私自身が、今ここに、全て反省して改める」となります。

自分は悪くない?

仏教は人を、儒教のいう性悪であるとか性善であるとかいう説を説きません。しかし、人は、生きとし生けるものは、その「愚かさ」故に悪をなすものであると説きます。

悪とはなんぞや、などという議論が哲学的に始まれば、それはいつ尽き果てるともしれない議論に陥ってしまうかもしれませんが、仏教における悪、それは一般に、十悪という言葉で一括することが出来るものです。

(十悪については、”戒律講説”の戒についてにおける”十善戒”を参照のこと。)

人は放っておけば、道徳教育や宗教教育を受けずにおけば、そして他人に知られない、秘め事であるならば何をなしても良いのだなどと思えば、それが悪だと知りながら、悪をなす。それは善であると知りながら、その善をなさない。あるいはそれを悪だと思わず、悪をなす。善と知らずに、善をなすことも。これは哲学的な、「真の悪とはなにか。善とは」などという問いに関しない、日常的なレベルでの話です。

私は悪いものである、などと思って思い煩う必要など必ずしもありませんが、しかし、私は悪をなしてきたものである、少なくとも自分のこの人生において、数え切れないほどの「諸悪業」を積んできた、と認識する必要はあるでしょう。

人は、自分自身の行いを振り返り、それが過[あやま]ちであったことを知るのは、何か悪い結果がもたらされてからの場合が多く、何も起こらなければ振り返りもせず、当然その過ちにすら気づかないことが多いものです。多くの場合、人に知られなければ後悔の念や罪悪感に苛まれることはありません。

そして、それに気づいたとしても、やがて時間がたてば「喉元過ぎて熱さ忘れ」てしまいます。いつまでもそのような感情を引きずって生きることなど、そう誰しもに出来ることではなく、むしろそうしなければとうてい生きてなどいけない、というのもまた事実でしょう。

誰しも、他人は悪くとも自分は悪くないと思い、悪いと思いたくもないものです。もし自分が悪いと知っていても、それを人に指摘されたら何とも不愉快になり、意固地になることも多々あります。いや、過去に自分がなした悪があったとしても、それはいまだ人に知られぬことであり、それを気まぐれに思い出すたびに多少の罪悪感を感じたとしても、自心を苛むほどにいたってない、故に反省するほどのこともない、機会があればそのときもおそらく・・・、ということすらあるでしょう。

誰もはじめから悪をなさずに生きる者などありはしません。様々な意味で、罪のない者など存在しはしません。人という者は、自分という存在は、実に矛盾したもので、それは悲劇というよりもむしろ滑稽ですらあるものです。

我が悪

過去を振り返って悔やみ悩んだとして、それはすでに過ぎ去って取り返しのつかなくなったこと。それだけでは意味などありません。しかし、だからといって、自らを振り返らずして今だけ見れば良いのか、より善い将来だけを望めば良いのか、といえばそのような事はありません。今の自分は自身の過去の蓄積でしかなく、過去からの延長線上に今という一瞬があり、それが未来につながっていきます。

公では悪をののしり、善のなんたるかを口にしながら、しかし密かに悪をなして、たちまち悔い、あるいは自ら苦しむ。悪を懺悔した次の瞬間にまた悪をなす。人は、この生の一瞬一瞬に、様々な、そして数々の業をなし続けています。我々は、悪をなしえるのと同時にまた、善をなすことが出来ます。その善をなすのにも、やはり過去の我が過ちをふりかえり、これを至心に懺悔することは、多くの人にとって大変有益なことであり、また必要なことです。

懺悔文のこの短い一文は、自らが謙虚に、そして積極的にそのような行いを振り返って見つめ、至心に懺悔することを述べるものとして用いられるものです。懺悔文、それはただ日常の勤行にてその始めにちょこっと唱えられるだけの、社交辞令的な、短い「反省文」などといわれるようなものでは全くありません。

懺悔文、それは本人の自覚によって、大海よりも広く深い意義をもった文言になり得るものです。

沙門 覺應 (horakuji@live.jp)

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