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法樂寺の開基は、平家の頭領平清盛公の嫡子、小松内大臣、平重盛(たいらのしげもり)公で、治承二年(1178)の創建と伝説されています。
法樂寺の院号の小松院は、小松の大臣(おとど)と呼ばれた重盛公にちなみ、紫金山(しこんざん)との山号は、当山に奉安する「紫金二顆(しこんにか)の仏舎利」に由来するとされています。
「紫金」とは、「紫磨黄金(しまおうごん)」の略で、紫色を帯びた最高の純金を意味しています。二顆の佛舎利とは、二粒の釈尊の遺骨を指す言葉です。 つまり、紫金二顆の仏舎利とは、純金のような輝きをはなつ二粒の仏舎利、を意味します。
さて、この二粒の仏舎利の由緒について、法楽寺では、以下に挙げた『平家物語』「金渡」の説話に関係があるとしています。
『平家物語』「金渡」(現代語訳)
平重盛公は、自身の来世の為に善根功徳を積んでおきたいが、日本では子子孫孫に先祖の後生を祈ると言うことは難しい、ということから、正直者で有名であった妙典(みょうでん)という船頭に黄金三千五百両を託して、宋の仏教の聖地、育王山(いおうさん)との結縁を求めます。
その内の一千両は育王山の僧達へ、二千両は宋の皇帝に贈って、伽藍を維持するための田畑を皇帝から育王山へ下賜して貰うためのものであり、残りの五百両は妙典への手間賃でした。
妙典が、困難な船旅を経て宋へ渡り、育王山の方丈、佛照(ぶっしょう)禅師に逢って重盛公の意志を伝えると、禅師は大変に喜びます。そこで妙典は、重盛公の指示通り、育王山の僧達に一千両を贈り、そして皇帝には二千両を贈って、重盛公の意を詳細に伝えます。すると、皇帝も重盛公の志に感じ入り、五百町の田畑を育王山に下賜し、重盛公のより良い来世の為としたのでした。
この時、佛照禅師が、重盛公の仏法に寄せる志の篤さに感じ、育王山伝来の佛舎利二顆を贈ったというのが、法楽寺伝来の二粒の仏舎利であるというのです。
このことがあったのは、当山所伝の古文書には、「南宋第二主孝宗順熈二年、本邦高倉安元二年(1176)乙未也」
と記されております。この時には、重盛公の邸内に多くの僧侶が招かれて、一七日の間、昼夜問わず香を焚き、経を読んで未曾有の大法要を行ったとのことです。そして、治承二年(1178)、重盛公は摂州田辺に壮麗な一寺を建立。翌三年五月、熊野参詣の途次に立ち寄って、盛大に落慶法要を営んだといいます。
寺伝ではこの時、阿育王山伝来の二顆の仏舎利とともに、平治の乱に滅び去った源義朝の念持仏、如意輪観世音菩薩を安置。怨親平等(おんしんびょうどう)に、平家と源氏とで相争い、命を落とした人々の菩提を、敵味方の別なく篤く弔ったと伝えられています。
以上が法楽寺の濫觴(らんしょう)で、治承建立の伽藍は、戦国末における信長の兵火に遭うまでの元亀年間まで護持され、「殿堂壮麗にして巍々(ぎぎ)たり」
と古書に記されています。
もっとも、法樂寺は、先に述べたように、元亀年間に信長の兵火によって灰燼に帰しているため、近世(安土桃山・江戸時代)以前の出来事を伝える古文書を、そのまま信用する訳にはいきません。実際、平重盛によって創建されたにしては、中世の史書に法楽寺の名など一向に出てこないので、その内容は後代の人々による創作、または脚色された可能性が高いと言えるのです。
ですから、以上に挙げたのは、あくまで「伝説上のお話」です。日本全国いずれの寺院についてもいえることですが、およそ近世以前の寺院の縁起物語などというもので、それが確実に史実である、と立証しえるは誠にわずかです。そのほとんどが、後代の何者かの手による、権威づけのための杜撰(ずさん)な創作と言えるのです。
もっとも、これら伝承を嘘っぱちだとやりだまにあげるのは、いかにも野暮というものでしょう。それが伝説上のお話しだとしても、伝承は伝承として伝えております。
寺記に、「正親町帝元亀二年(1571)辛末、秋九月、信長摂を撃つ云々」
とあり、十六世紀末に法楽寺は信長の兵火によって灰燼に帰し、その兵火は河内にまで及んだことを伝えています。
しかし、天正十三年(1585)に至って、寺はひとまず復興。そして、江戸時代中期の正徳元年(1711)、洪善普摂(こうぜんふしょう)律師(右図)が、当寺の三大律院の一つであった河内野中寺より晋山し、法楽寺を律院として、本格的復興をはかりました。
堂塔再建に際しては、大和大宇陀三万千二百名を領した、松山藩織田家の殿舎を譲り受けたことが古記録に見えます。今日の山門、本堂がそれです。
大和松山藩主は織田信長の次子、信雅を祖とする名門で、信長の兵火に焼けた寺院を、その遠孫の殿舎で復興したのは奇しき因縁です。さらにいうならば、織田氏は平資盛の子を祖とする平家の末流である、とされており、これらのことが歴史的事実であれば、因果の不思議、歴史の皮肉を感じさせます。
中興第一世洪善普摂和上の示寂からほどない享保十五年(1730)十一月、十三歳の聡明な少年が法樂寺に入り、中興第二世の忍綱貞紀(にんこうていき)和上(左図)に従って出家します。
幼名は上月満次郎。この少年こそ後の、一宗一派にとらわれることを非とし、まず等しく戒と律とを保った上での諸宗兼学を是として、常に仏陀釈尊の教えに忠実であることを説いてやまず、また現に実行された正法律思想の提唱者、慈雲尊者飲光(じうんそんじゃ おんこう)その人です。
いわば「釈尊に帰れ」という、仏教の原点回帰を志された慈雲尊者ですが、それはやや時代が下った江戸末期から明治期に、剣術家や書家、政治家としても活躍した山岡鉄舟をして、「日本の小釋迦」とまで言わしめるほどのものでした。
現在の法楽寺は、「田辺のお不動さん」と親しまれています。
いつの頃から「田辺のお不動さん」と呼ばれるようになったのかはわかりません。しかし、天王寺には「はうらくじみち」と刻まれる古い道しるべがあり、江戸時代から人々の盛んな参詣があったものと思われます。
大正十四年の『田辺町史』にも、「毎月二十八日縁日として参詣者夥(おびただ)し」
と記されています。
昭和初期頃までは、法樂寺は慈雲尊者の遺風を継いだ律院でしたが、現在は妻帯世襲寺院となり、近畿三十六不動霊場の第三番札所や大阪十三佛霊場の第一番札所、役行者霊蹟札所の一つとなるなど、いくつかの霊場の札所となっています。
毎月二十八日の本尊不動明王の縁日には、多くの参詣者でにぎわいをみせています。檀家寺として、また祈祷寺として開いているお寺、それが現在の法樂寺です。
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