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慈雲尊者とは、江戸中期の大阪を中心として活躍した仏教僧です。
俗名は上月平次郎、僧名は慈雲(じうん)、字は飲光(おんこう)。号は百不知童子(ひゃくふちどうじ)、雙龍叟(そうりゅうのおきな)、葛城山人(かつらぎせんにん)など。
尊者は、享保3年(1718)7月28日、大阪中之島は高松藩蔵屋敷に生を受け、文化元年(1804)12月22日、京都阿弥陀寺にてその生涯を閉じています。享年87歳。
釈尊の説いた教えを純粋に実践し、本来の僧侶や寺院のあり方を取り戻そうと戒律復興運動に尽力。冥想に打ち込み、多くの庶民に法を説いて止まなかった慈雲尊者は、やや後代に剣術家や書家、政治家として活躍した山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)から、「日本の小釈迦」とまで讃えられています。
慈雲尊者は、13歳で摂津法楽寺にて出家し、天下の三僧坊と世にうたわれた律院の一つ、河内野中寺(やちゅうじ)にて、21歳で具足戒を受け比丘となった、律宗の真言僧です。
野中寺から法楽寺へ帰ってその住職となるも、二年たらずでその職を辞し、信州は曹洞宗正安寺の高徳、大梅(だいばい)禅師のもとに約三年間参禅。大阪に帰り、師の命によって高井田長栄寺に住職として入って後には、法弟の愚黙親証(ぐもく しんしょう)の懇願によって、「正法律(しょうぼうりつ)」という一つの思想を唱え、実行しています。
「正法律」とは、慈雲尊者が考案したものではありません。あるいは「真言宗の戒律」といった類の、宗派や団体独自の戒律と言われるものでもありません。
「正法律」という言葉自体も、『大般若経』や「根本有部律(こんぽんうぶりつ)」などの仏典に散見される言葉を使用したもので、尊者が考案したものではありません。
正法律、それは仏陀釈尊が定められた通りの生活、修行を行い、禁じられたことは行わないという、いわば仏弟子としての「あるべきよう」に則ることを主張した言葉です。
ところで、僧侶の「あるべきよう」の具体的指標、僧侶たる者の生活・行いを規定する根拠となるものは、「経蔵・律蔵・論蔵」のいわゆる三蔵のうち、律蔵以外にありません。
そこで尊者は、僧侶たるものはすべからく「律」に則ったものでなければならず、その実行に際しては、決して人情を交えてはならず、それまでの慣習によってもならない、という態度を第一として挙げています。
そして、尊者は、釈尊の説かれた戒と律とを守り、実行する者であるならば、仏教における経律に則ったいかなる思想を信奉し、またどの宗派に属しているとしても、誰でも一派同朋であるとしています。
しかし、これは本来、仏教徒であるならばごく当たり前の態度であって、取り立てて主張すべきことでないはずのものです。ところが、日本仏教各宗派の教義やその体制は、「祖師(仏)教」と換言することが出来るほど、仏教僧団の本来的あり方からかけ離れたものでした。
彼らは、自らが属する宗祖を、まるで仏菩薩や神の化身であるかのように崇拝して盲信するのが常であり、釈尊をすら軽視する傾向にあります。自分たちの宗派を最も優れた絶対的なものとみるあまり、教義的にも体制的にも、非常に偏向的・排他的なものとなっているのです。
彼らのほとんどは、「祖師無謬(そしむびゅう)説」とまで言われるように、祖師と言われる人の思想を、無根拠に、もしくは経説を牽強付会(けんきょうふかい)してまで絶対視する教義を構築。
それがために、そこに属する人々は、そのような、ときとして極めて偏向な教義の枠内でしか釈教を捉えることが出来ません。彼らからすれば、自分たちこそが「釈尊の真意」を正しく理解し、実践しているというのですが、それは結局、いわば仏教を換骨奪胎することにつながった言えます。
また、祖師と言われる人の中には、戒律不要論、戒律害悪論と解し得る主張を公然とした者すらあります。もし、戒律の重要と実践を強調していた者があったとしても、その弟子達で戒律の遵守をなす者はごくごく稀でした。この様な態度は、これは現在にいたってもまったく同様でいかんともしがたいのですが、日本仏教界ではむしろ常識的なだったのです。
そのような日本仏教各宗派の思想は、きわめて観念的・情意的なもので、そこに属する人々がいくら仏像を礼拝して経典を読み、頭を丸めて袈裟をまとい、堂々と仏教の看板を挙げていたとしても、それらは「もはや仏教ではない」と断じて差し支えがない程です。
さて、尊者は、そのように人が戒と律とを守らず、偏向な一宗一派の教義に拘泥し、宗派の祖師を盲信して宗派びいきすることを、強く批判しています。
それぞれの祖師の思想には、長所もあるものの短所や誤りも多いことを指摘。もしそれに依るとしても参考する程度に留め、あくまで学び行うべきは、後代の者達の観念的解釈を廃した、仏典に伝えられる釈尊の言葉そのものであるとしたのです。
そして、その際は、仏の教えには「八万四千の法門」と形容されるほど膨大な数ある内の、いずれかごく一部の経典に説かれている、時として非合理な教えに固執してはらなず、三蔵を通じて合理的に学び行うべきであるとされています。このような正法律思想の根本的態度は、尊者の著された『根本僧制(こんぽんそうせい)』という著作から知ることが出来ます。
「正法律思想」、それは、日本の仏教徒に根強くはびこった宗派意識を撤廃し、釈尊在世当時の僧侶のあり方に立ち帰ることを目指した、いわば「釈尊に帰らん」との宣言でもあったのです。
尊者は、正法律をとなえ実行するようになって以降、日本の僧侶達はその思想はもとより外見においてすらも、仏陀の教えから程遠いものとなっていると批判しています。
実際、それまで日本で用いられていた袈裟では、インドの高僧の肖像や、如来像などで見られる袈裟の着用法とは、大いに異なったものとなってしまうのでした。
尊者は、日本の僧侶達の姿や振る舞いは、僧侶のあるべき姿とは似て非なるもの、相似なるもの、まがいものであるとして、諸律蔵や古い仏像、仏画などに到るまでくまなく調査し、『方服図儀(ほうぶくずぎ)』という書物を著します。
この書で尊者は、律蔵で制定されている、本来の袈裟の形や大きさ、その素材や色から着け方にいたるまでをまとめています。
尊者は、自身の研究成果としての本来的な仏教者の衣装、いわば「如法の袈裟」を普及させるために、千衣裁制を発願。これは様々な人の協力によって成し遂げられています。もっとも、この書を著したことによって、籍を置いていた律宗野中寺から除籍されるなど、尊者のこの行為は、当時大変異端視されるものでした。
しかしながら、現在では、奈良の律宗など一部を除く日本の僧侶のほとんどが、尊者の改正した袈裟を着ています。これは明治期、慈雲尊者の思想の継承者を自認していたという、釈雲照(しゃくうんしょう)などによって、やはり千衣裁制運動がなされた、その結果としてのことのようです。
さて、しかし、明治期当時も慈雲尊者の当時と同じく、釈雲照などによるこの運動は、律宗の人々からすれば苦々しい行為だったようで、「節操がない」などと批判することがあったようです(唐招提寺編『唐招提寺』学生社)。もっとも、律宗の人々がこのように思うのも無理は無い、と思う面は確かにあったようです。
今では、奈良の律宗などが着用している旧来の袈裟を、「四分袈裟(しぶんげさ)」などと呼ぶことがあるのに対し、尊者が改正された袈裟は、「如法衣(にょほうえ)」つまり「(釈尊の)教えの通りの袈裟」と呼称され、用いられています。また、尊者が「根本説一切有部律」も参照して袈裟を改正されたことにちなんで、ときとしてこの袈裟を「有部袈裟(うぶげさ)」などとも呼ぶことがあります。
ただし、尊者が改正された袈裟が現在用いられている、とは言っても、その着用法は尊者の諸像を見ればわかるように、尊者のそれとは異なっています。いや、尊者のそれとは異なる、と言うより仏陀の定めた律蔵の規定に違えている、といった方がより正確でしょう。
そもそも、袈裟の着用法には場合によって使い分ける二つの方法があります。それは、右肩を顕わにする「偏袒右肩(へんだんうけん)」と、両肩を覆い隠す「通肩(つうけん)」との二種です。
「偏袒右肩」とは、尊敬を表すべき対象、例えば仏像や仏塔または自分より目上の僧侶を前にしたときや、読経あるいは諸々の儀式のときにすべき着用法で、在家者をのみ前にした時にはすべきでない方法です。対して「通肩」は、托鉢などで街を歩くときや、冥想を行うとき、あるいは在家者を相手に説法するときにすべき着用法です。これらは律蔵において厳密に規定されています。
ちなみに、日本に伝えられている密教の祖師達、例えば龍樹(ナーガールジュナ)菩薩や不空(アモーガウヮジュラ)三蔵などインド僧の肖像は、大抵「通肩」で描かれています。慈雲尊者の肖像や坐像などは、冥想している姿の時は「通肩」、戒を説いているときは「偏袒右肩」と描き分けられていることに気付くでしょう。
もともと、日本はもとより中国・朝鮮史上においても、通肩の着用法が研究されたことはあれ、行われたことはなかったようです。インドとの気候風土の違いもあってか、中国において袈裟の着用法は正しく伝わらなかったのです。よって、慈雲尊者が行った袈裟の改正により、通肩という、律にそった僧侶として正式な袈裟の着用が出来るようになったというのは、中国・朝鮮・日本の三国史上稀な、一大功績と評価できることなのです。
尊者は、仏教における諸思想については勿論のこと、儒教・道教など中国古典にも精通しており、それらについての著作も残しています。
晩年には神道を研究し、それまであった諸説の短を捨て長を採って「雲伝神道(うんでんしんとう)」を創始されるなど、その活動は多岐にわたっています。
尊者は、その生涯において数多くの優れた著作を残されていますが、その中で最も学問的に注目されるのは『梵学津梁(ぼんがくしんりょう)』一千巻であり、宗教的一般的に最も重要であるのは、『十善法語(じゅうぜんほうご)』または『人となる道』であると言うことが出来ます。
『梵学津梁』とは、慈雲尊者によるサンスクリット研究の集大成で、その量一千巻という膨大なものです。これには、当時の日本で尊者が集められうる限り集めた梵字資料が含まれています。
明治31(1898)年、当時のサンスクリット研究の権威、フランスのシルヴェン・レヴィ博士が来日されたおり、偶然にして尊者の『梵学津梁』の話を聞いたことから、博士は興味をそそられて尊者が住されていた河内高貴寺を訪れます。
そこで、『梵学津梁』を見た博士は、その内容量と質の高さに驚嘆し、帰国後、世に非類無き貴重な著作として広く世界に紹介しています。尊者が『梵学津梁』編纂の中で行ったサンスクリット研究は、西洋に先駆けること一世紀も前だったのです。
慈雲尊者は、サンスクリットこそ釈尊が使われていた言語である、という当時の日本仏教界における一般的認識に従って、誤りや意味不明瞭な点の多い漢訳された経典ではなく、サンスクリットで記された原典たる経典を、直接読むべきであると考え、独学でサンスクリットを習得したのでした。
現在の学問水準からすれば、尊者のサンスクリット理解は完全ではなく、妥当なものと言えるものではありません。しかし、現在のようにサンスクリットの参考書も文法書もまったく無かった当時、これを独学で大概理解するまで習得したなど、尊者のこの行為は、にわかには信じがたいほどの大変な偉業であることに、一度でもサンスクリットを学習したことがある人ならなおさら、異論を差し挟むことはできないでしょう。
これも尊者の「正法律思想」に基づく、釈尊の純粋な教えとあり方に立ち返ろうとする、真摯な姿勢の表れであったと言えます。
余談ですが、釈尊の話されていた言葉は、中国や日本、チベットなどではサンスクリットであったと伝承されてきましたが、現代までの学問的成果によって、「マガダ語」といわれる、インド北部はインダス川中流域にて用いられていた俗語であることがわかっています。しかし、この言葉は、碑文などの遺跡によって知られるのみで、もはや滅んで伝わっていません。
スリランカやビルマ、タイなど東南アジアの仏教国では、それらの国の仏教教団で伝えてきた聖典に用いられている言葉を、「マガダ語」と呼んでいました。それだけ自分達が伝えてきた聖典は、釈尊の言葉を実質的に一語たりとも、加増・改変・削除など当然の事ながら、翻訳すらもせずに伝えてきた絶対の権威あるものとしていたのです。
しかし、16世紀頃(?)、マガダ語と自分たちの聖典に用いられている言葉は異なる、ということが判明。それは西インドで用いられていたピシャーチャ語(鬼神語)に類するものであったのです。以来、「聖典」を意味する「パーリ」という言葉をもって、彼らがそれまで聖典に使用されてきた言語の名に当てるようになりました。
日本の僧侶の中には、釈尊が話されていた言葉はサンスクリットである、といまだに主張している人がいます。それと同様に、ミャンマーやスリランカの僧侶の中にも、いまだパーリ語こそマガダ語である、との古来の伝承を頑なに信じている人も、中にはいるようです。
現在残されている慈雲尊者の尊像・御影では皆、立派なヒゲが生えた尊者の顔が描かれています。
実際、尊者の伝記である『正法律興復大和上光尊者伝』にも、「尊者広額豊頤。鬚眉雪白
(尊者は広い額と立派なアゴをもち、そのヒゲと眉は雪の様に白い)」と、尊者の晩年の容貌が描かれています。
しかし、戒と律とを厳守し、実行されていた尊者からすれば、これは非常におかしなことなのです。何故なら、仏教僧ならば誰であれ、毛髪は勿論のこと、ヒゲもすっかり剃り落とさなければならない、と律蔵で定められているからです。
もちろん、尊者は伊達や酔狂でヒゲを延ばしていたわけではなかったようです。
尊者のヒゲはよほどの剛毛だったようで、剃ると血がダラダラと流れ、痛くて堪えられなかったというのです。困った尊者は、「病比丘は髭髪を蓄ふること四指(約10cm)に到るまでを許す」、との律宗の口伝によって、不本意ながらもやむを得ず、ヒゲを伸ばされていたということです。(木南卓一編『慈雲尊者の話』三密堂書店,38項)
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