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慈雲尊者は、その生涯の中で、多くの書を書き残されています。
ここでは、法楽寺に伝わり蔵している尊者の墨蹟のごくいくつかを紹介いたします。しかし、その前にまず、慈雲尊者の書に対する姿勢、志を皆さまに知って頂きたいと思います。
持律堅固の比丘で、仏陀釈尊ご在世当時の仏教のあり方を目指された、慈雲尊者の書に対する姿勢は、書家のそれとはまったく異なっていたと言うことが出来ます。
それは尊者が残された、以下に挙げる『尼衆消息手本(にしゅしょうそくてほん)』の一文から伺い知ることができます。
文字、禅を離れず。即ち亦た何ぞ瑕絶(かぜつ)せんや。不肖、書学に拙きも亦た其の志は護法に在り。故に、一行たりと雖も必ず護法に在り。他の善心を開発(かいほつ)するに在り。 見ん者、請ふ、察せよ。
(意訳)
文字(を書くということ)は、「禅」に異ならないものである。であるから、なんで書き直しなどすることがあるだろうか。未熟な私が、書学につたないながらも(筆を執り書を留めるのは)、その志が護法にあるためである。よって、たとい(書いたのが)一行にすぎないものであっても、(それは)必ず護法のために書いたものなのである。他者に善き心を起こさせるためのものなのである。(だから私の書を)目にする者は、どうか、(この志を)察して欲しい。
このように尊者は、文字は禅に異ならないものである、と言われています。
ところで、この「禅」とは、一般的に考えられている「無念無想」・「無我の境地」などといった、呆けただけの状態、思考停止の状態になることなどではありません。
そのような状態になりたければ、睡眠薬か麻薬でも大量に服用するか、人に自分の後頭部を鈍器などで思い切り叩かせれば済む話です。そのような、薬物や外的物理的影響によって、容易くなれるような状態になったとしても、なんの意味もありません。
禅とは、普段のとりとめなく散乱している自身の意識を、今、この瞬間に自分が行っていることを観察することによって集中させ、不動のものとすることをいいます。いわゆる坐禅のように、足を組み、目を閉じるなどして行うことだけを、禅というのではないのです。
さて、次に続く「何ぞ瑕絶(かぜつ)せんや
」という言葉の「瑕」は傷のことで、「絶」は捨てるの意。つまり、失敗したものを捨てること、書き直しを意味する言葉です。
上の一文は、禅によって書かれた書は、最初で最後のものであって、それがどのようなものであっても書き直しなどありえない、という意味の言葉であるのです。
まっとうな書家からすれば、尊者の書法・筆法は、基本を無視した稚拙なものかもしれません。
しかし、尊者はそれを承知で言われています。自らの書の志、目的とするところは護法であると。仏教を正しく人に世に伝え広めることにある、と。書かれたものがどれほど短いものであっても、その目的は護法であり、人の善心を興すことであるから、私の書を見る者はその志を汲んで欲しい、と言われています。
実際、尊者の残された墨蹟の中には、山水を詠った娯楽趣味の類のものは、一つとしてありません。
その題するところは当然のことながら、ほとんどが仏教に関するものであり、他のものといえば儒教や神道に類するものが散見される程度です。ですから、尊者の残された書は、まさに尊者の説法そのものと考えられるのであって、尊者没して二百年後の現在も、我々はその書を通して尊者の説法に触れることが出来る、とも言えるのです。
尊者の望まれたように、決して審美の眼によってではなく、一求法の徒として見るならば。
(参考文献)
三浦康廣「慈雲尊者撰書『書学』跋文における「何瑕絶」思想の来由について」(吉田行雄教授退官記念『上越教育大学国語研究』)
三浦康廣「慈雲尊者の書芸術」(慈雲尊者二百回遠忌の会編『真実の人 慈雲尊者』大法輪閣P84)
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