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ここでは、仏教の戒律の中でも、特に「飲酒戒(おんじゅかい)」について説明しています。
飲酒戒とは、在家信者の保つべき「五戒」「八斎戒」などのうちの一項目、あるいは出家修行者の律の一条項で、穀物種であれ果実酒であれどのような酒類でも、これを飲むことを戒めたものです。ちなみに、出家修行者の場合は、戒められているのではなく、禁止されています。
仏教徒であれば、酒は飲むべきものではなく、僧侶であれば、決して飲んではならないものです。まれに「不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し、悪を行うことを戒めているのだ。よって多少ならば良い」という者がありますが、詭弁です。
たしかに、戒律の分類法には、仏教で戒める行為のうち、その行為自体が本質的に罪であるから戒められた「性戒(しょうかい)」と、悪を引き起こす可能性が高いから戒められた「遮戒(しゃかい)」という区別があります。この分類法によると、五戒でいうならば、殺生戒や偸盗戒、妄語戒、邪淫戒は「性戒」であり、飲酒戒は「遮戒」であるとされています。しかし、それはあくまで解釈・分類に過ぎないものです。「遮戒」であれば犯しても良いなどというのは、やはり詭弁でしょう。
さて、では仏教ではなぜ、「酒を飲んではいけない」と説くのでしょうか。
その答えを簡潔に言ってしまえば、「自分の為にならないから」の一言につきます。仏典では、様々にその理由を挙げていますが、それらは、いわゆる「宗教的」なものばかりではありません。「世間での評判が落ちる」「健康を害する」「財産を損減する」などといった、社会的なものも多く含まれています。
それは、出家者が酒を飲まないのは当然として、在家者もなぜ飲むべきではないのかを、仏陀がわかりやすく、そして実際的に説かれているためです。
しかし、日本では古来、酒が社交の中で必須のものとなっており、「酒」に関して非常に寛容な、ある意味においては非常にルーズと言える面をもった文化を形成しています。
これによって、さきに酒を飲んではいけない理由として「自分の為にならないから」と言いましたが、日本ではむしろ酒を飲まなければ社交上「自分の為にならない」ではないか、と思う人もあるでしょう。
「自分の為にならない」と言っても、そこにはレベルがあります。ただ社会的、健康的な意味で自分の為にならない、とだけで受け止めるならば、多少は酒を飲んでも良いことになるかも知れません。「常識的な範囲なら、自分の為にならないことはない」、というのが一般的な見解かもしれません。しかし、「常識的な範囲」など、ずいぶんといい加減なもので、基準にはなりえません。
日本仏教界でも、仏教において戒められ、僧侶であれば厳に禁じられているはずの飲酒を、ある人は「この世の習い」として容認。あるいは「般若湯(はんにゃとう)」などという隠語でもって暗に、または公然と用いてきた歴史があります。
そして今も、なんだかんだと理由を付けて、どうにか飲酒を正当化しようとする自称仏教徒は跡を絶ちません。いや、いわゆる「日本のお坊さん」の集まりにおいて、酒は必須です。酒が出ない集まりなど、まず考えられません。得度式のあとで乾杯、授戒式のあとで乾杯、法事のあとで乾杯、葬式のあとで乾杯、晋山式のあとで乾杯、就任式のあとで乾杯などなど。
酒は「お坊さんのたしなみ」であり、飲まなければダメ、飲まない奴はダメなどという有り様です。最近になってようやく、飲酒運転の取り締まりや刑罰が若干厳しくなってきましたが、それでも飲酒運転は当たり前、捕まるのは運が悪いから、というオボウサンがたくさん棲む、世界遺産にも指定されている大変有名な「聖地」があるほどです。
その様な集まりにおいて、オボウサンから「どうだ一杯」とすすめられた折、「いや、私は仏教徒ですから」などと断ろうものなら、「何ぃ!?おい、貴様、不飲酒とか言うの守ってんのか?不愉快だ。やめろ、いますぐ破れ」などと恫喝(どうかつ)されてしまう場合があります。恫喝されないまでも、「ほぉ、私の酒が飲めない?ふぅん、ずいぶんとお偉いことですなぁ」などと揶揄(やゆ)されたり、「檀家さんはな、ボンサンと一緒になって酒を酌み交わすことが、亡き人の供養になると思っとる。わしらが酒を飲むことで、彼等のご先祖さんは報われるんぢゃ。檀家さん(=飯の種)もよろこぶ。酒も菩薩の方便なのぢゃ」などと、だらしない赤ら顔から、世間に迎合することを良しとする、妙ちくりんな説教をされたりしてしまいます。
そこで、そういう場合「いや、ワタクシ最近ちょっと飲み過ぎで色々と数値があがってまして、医者からきつく止められてしまったんですよ」などと言えば、「なになにそうか。いや、私も通風やら糖尿やら高血圧やらで苦労しとるんや。最近流行のメタボちゅう奴や。あんたも若いのに大変だな。あぁ、お互い様か。ワハハハ」と、丸く収まるようです。
もっとも、「へぇ、これはもったいのうございます。いや、いただきます。よろこんで頂戴します」と言って飲んでしまうのが、日本仏教界における模範的応対と言え、これが「坊主界の処世術」です。
このような記述は品がない、個人的な怨みでもあるのか、と思われる方もいるかもしれません。確かに、品の無い内容であることを認めねばなりません。それは、品のない世界を率直に描いたためである、というのを弁明の言としておきます。しかし、これでもかなり控え目な表現で、実際はさらにスゴイ、見方によってはかなり面白いものだと思われて間違いありません。
さて、どうしても酒を飲みたい人々、仏教が酒を戒めている事が気にくわない人々から、先ほど述べたように、「酒自体が悪いわけではない。過ぎた酒によって、好ましくない事態が引き起こされることが悪いのである。つまり、適度な酒ならば問題ないのだ。世間でも酒は百薬の長と言われている。一滴も飲まないというのも、飲み過ぎるというのもいけない。お釈迦様の調弦の喩えがあるだろう。何事も適度に」という趣旨の言葉が放たれる事があります。
あるいは、「飲酒戒は、酷暑の地インドで制定されたもの。インドで酒に酔えば、その暑さから意識ももうろうとし、下手をすると命にも関わろうが、中国・日本などは寒暖ゆるやかな地。それぞれ気候風土が異なるのだから、酒の効用も異なり、彼の地の規制をこの地に当てはめるのは不合理」などと、したり顔で主張する者もあります。
また、自身が信仰する、ある宗派の「お祖師さま」の、酒に関する寛容な発言や態度を引き合いに出して正当化しようとする人もあります。それにかこつけて「多少なら酒を飲む事も良い」と言い、しまいには「人間だもの」などと開きなおる人さえあるようです。
まず、酒を好む者に「適度」を知る者など、果たして存在するのかどうか、甚だ疑問を感じる所ではあります。一つ許せば、二つ許せ三つ許せと求め、「たまには良いだろう、今日くらい良いだろう、明日で終わりにしよう」などと、結局は際限が無くなっていくのは、人の世の常です。
また、仏典を直接まじめに読めば理解できることですが、仏教が酒を戒めることに、インドだから、チベットだから、東南アジア、日本だからなどという、気候・風土の違いなど関係ありません。ずれにせよ牽強付会(けんきょうふかい)の説と言えます。
仏教の説く道、悟りを求める者には、酒は不要であり、害毒でしかありません。世間がどう言ってみたところで、仏教が酒を戒め、また具体的に禁じていることに変わりはないのです。
「私は仏教徒だ。しかし、自分にとって、酒は大好きで止められない楽しみの一つであり、止めるつもりもない。けれども仏教を実践して、少しでも悟りの境涯に近づいていきたいとも思っている。その場合どうすれば?」と言う人が大変多くあります。
また、「酒を飲むなと言うのはあくまで戒であるし、他にも大事な、本質的な事があるだろう。それに仏教は慈悲の教えでもあろう。酒を飲むななどと、細かくうるさい事をいうのは仏教の本道から外れている。お釈迦様はもっと優しい、おおらかな人であったはずだ」などとまで強弁する者も稀にあります。
結論から言うと、悟りを目指すか、酒を飲まないかの二者択一です。在家信者であれば、どちらを選択すべきかは個人の問題です。どちらが大切か、どちらに価値があるかを、自分自身で選ぶべきです。仏道を信じ、歩もうと思っているのであれば、どちらが価値あることかは、わかりきったことでしょう。
「人間は愚かで弱い。飲酒戒にしろ殺生戒にしろ妄語戒であろうと、戒を守る守らないなどと言う話よりも、まず仏様のお導き、お救いを信じる事こそが大切」などといった、「夢のある」主張をする人もあるようですが、論外です。仏教はファンタジー(幻想)や浪漫ではありません。
悟りの楽しみと、酒の楽しみの両方を得ることは、決して出来ないのです。もっとも、酒をやめただけで悟りに至るなどという事は決してありません。他に最低限やめるべきこととして、「殺生」や「盗み」、「ふしだらな性関係」、「虚言を吐くこと」があります。さらに自身を磨いていこうとするならば、これだけの戒めではとても足りません。
仏教徒として、悟りを求めるならば、我慢しなければならないこと、止めなければならないこと、やらなければならないことは、たくさんあるのです。ただし、我慢し、やめることによって得られるモノは、大変大きく、安楽なものと言えるでしょう。いや、「なぜ~してはならないのか」を理解し納得すれば、「我慢してやめる」などということはなくなって、おのずからやらなくなっていくでしょう。
さて、ここでは、仏教で「なぜ酒を飲んではいけないか」と、飲酒の過失について述べるのに、具体的に飲酒について言及している仏典のうち、いくつか有名なもののごく一部を挙げることをもってしています。『長阿含経(ぢょうあごんきょう)』や『梵網経(ぼんもうきょう)』、『四分律(しぶんりつ)』・『大智度論(だいちどろん)』がそれです。
さらにまた、日本仏教の祖師と言われる人々の著作や伝記からも、飲酒に関連した文言を、若干ながら引用してその補助としています。
ここで紹介するのは、飲酒の過失を説き、戒めている仏典などの、ごく一部に過ぎません。しかしながら、それらに直接ふれることによって、仏教がなぜ酒を飲んではならないと説くのかを理解する、一助としていただきたいと思います。
そしてまた、ご注意頂きたいのは、これを観念的に捉えてはいけないということです。また、妙な思い入れ・感情移入をして捉えようとするのもいけません。
当サイトで紹介している慈雲尊者の言葉に、「多聞(たもん)は労して功なし。解了(げりょう)は妄想を長ず」(『慈雲尊者短編法語集』)というものがあります。
仏教は実践しなければ理解出来ません。実践することなしに、経験することなしに、観念的に理解してわかったつもりになっても何の意味もなく、むしろ弊害こそあるのです。いたずらにただ知識としての仏教を詰め込んでいては、仏教を理解する事は決して出来ません。
ここで紹介した不飲酒についてもまた、観念的にではなく、実践によってこそ理解して頂きたいと思います。
法楽寺サイト制作・管理者/婆塞 覺應
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「善生経(ぜんしょうきょう)」とは、三十の比較的長い経典の集成である『長阿含経(ぢょうあごんきょう)』の中の十六番目の経。「なぜ酒を飲んではいけないか」を、六つの具体的な過失を挙げ簡潔に説いている。別訳経に『優婆塞戒経(うばそくかいきょう)』がある。
中国・日本における最も有名な大乗戒・菩薩戒を説く『梵網経(ぼんもうきょう)』における、酒に関しての戒。「酤酒戒(こしゅかい)」とは、「酒を販売することの戒め」。梵網経では、これを最重罪の一つであると規定し、厳に戒めている。また、あわせて酒を飲む事も戒める。
中国・日本における僧侶の法律書、『四分律(しぶんりつ)』の飲酒を禁止する条項。僧侶が酒を飲む事をなぜ禁止するようになったかの経緯と、酒の十の過失、もし犯した場合の罰則、例外事項とその条件などが説かれている。
宗派を問わず漢語仏教圏における必読の書、龍樹(ナーガールジュナ)が著した『摩訶般若波羅蜜多経(大品般若経)』の注釈書である『大智度論(だいちどろん)』が示す、酒の35の過失。仏教者がなぜ酒を飲んではいけないかが、明快に説かれる。
しばしば真言宗徒が、空海の言葉として口にする「塩酒一杯はこれを許す」という言葉の典拠。彼等はこの一文を根拠とし、さらに「一杯は一杯でも、お大師様はお猪口かバケツで一杯かは言われていないのだ」などと放言して、ウワバミの如く酒を飲んでいる。しかし、実際はこの書の中で空海は、まず飲酒を厳に戒めている。例外として、病に臥せった者が「薬としての酒」をごく少量用いる事を許し、その場合の用い方を記している。
しばしば酒好きの浄土教関係者が引用する、法然(ほうねん)が飲酒を容認した言葉。「人間らしい」彼の一言が、彼の追従者たちに、はなはだしい悪影響を与えつづけている。
鎌倉初期になされた戒律復興の一端を担った明恵(みょうえ)上人が、酒について徹底した厳しい態度を示しということを伝える伝記。明恵上人が真の求道者であり、よく「人間というもの」を知った智慧の人であったことが、よく了解されるであろう。
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