真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡  なぜ酒を飲んではいけないのか-『スッタニパータ』-

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1.『スッタニパータ』に説かれる飲酒の過失

禍(わざわい)の起るもと

『スッタニパータ』の「ダンミカ経」に説かれる、なぜ酒を飲んではいけないのかの理由。それは、「酒は人を酔わせるものであるから」です。

酒が人を酔わせるものであるのは、あたりまえのことです。だからこそ、人は酒を飲むのでしょう。「自分は酒に強く、決して酔いはしない。ただ味わいたいのだ」という方もあるでしょうが、ほとんどの人が酒を飲むのは、その味が良いのと同時に「酔えるから」であるでしょう。「酒は憂いの玉箒(たまぼうき)」とばかりに、酔う事によって普段の「憂さ」を晴らしたい。酔いによって、忘れたい苦い記憶、想いから、一時でも解放されたい。あるいは、普段から楽しいが、酒を飲むともっと楽しくなるから。一日の終わりに、仕事の緊張を解くこの上ない妙薬として、酒を飲む人もあるでしょう。

しかし、それをここでは戒めます。

さらに、『スッタニパータ』では、酒を人に勧めて飲ませる事、いや、他人が酒を飲むこと自体を容認してもいけない、とすら説いています。飲酒について、自他に対して大変厳しい態度をとるべきことが説かれているのです。しかし、他人が酒を飲む事を容認してはいけない、などと聞けば、「そんなの人の勝手でしょ」と言い出す人もあるでしょう。

勝手です、確かに。ただ、ここでは現代人が麻薬に対してする態度と同じ態度を、酒にもとっていると思えば良いかもしれません。酒も麻薬も、人を酔わせる点、中毒になる点では同じなのですから。

では、なぜ酔ってはいけないのでしょう。それは、人は酔って(普段はなさぬような)悪事をなし、またあるいは怠惰となるからである、と示されています。実際、人が酒に酔って痴態をさらし、何らか悪事を行うのは珍しい事ではなく、重大な犯罪すら引き起こすことすらも、決して稀な事ではありません。

酔い。実にそれは、人を狂わせ、日常の小さな過ちから、取り返しのつかぬ悲劇をすら巻き起こす原因となりうるものです。それは、禍(わざわい)の起こるもと、なのです。

人は普段から酔っている

おそらく、「それな稀な事例。極端な事例であって、普通はそうまで飲まない。少なくとも私は彼等とは違う」と言う人があることでしょう。「私に限ってそのようなことはない」と。

仏教では、すべての人はまともに世界を見てはいない、と考えます。人はさまざまな物事について、正しく認識出来ていない、というのです。人は、見ているようで見ていない、聞いているようで聞いていない、あるいは、見たいことだけ見、聞きたいことだけ聞きいている。人は、世界を自分の見たいように見て、聞きたいように聞いているのであって、どれも結局は妄想にすぎません。

ここで「妄想」というのは、なにも頭の中であれこれとファンタジックなことを想い描く事だけを言うのではありません。仏教からすれば、人のほとんどすべての認識は「妄想」であり、普段から酔っているようなものです。

酒を飲まずとも酔った状態でありながら「私は酔ってなどない!」などと、人は人生という車を、酔っぱらい運転しているようなものです。「自分」というフィルターを通して見聞きし、作り上げた自分の頭の中の世界(妄想)と、現実の世界はまるで食い違っており、それがために人は苦しみ、迷い、同じ過ちを永遠に繰り返していくと、仏教では説きます。

如実知見

酒を飲むことに対して、「普段ただでさえ狂酔しているのに、その上、ことさらに狂酔を重ねてなんとする」と言え、ゆえに仏教は飲酒を戒めるのです。

そこで、戒をまもったうえで冥想することによって、「如実知見(にょじつちけん)」といって、物事をありのままに見、そしてこの苦しみ深き世にあってその連鎖を断ち、平安を得んとするのです。

それが、仏教です。

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2.SUTTANIPĀTA(『スッタニパータ』)対訳

ダンミカ経

原文
(398)
Abrahmacariya(m・) parivajjayeyya,aʼngārakāsum(m・) jalitam(m・)va viññū;
Asambhu(n・)anto pana brahmacariya(m・),parassa dāra(m・) na atikkameyya.
(399)
Sabhaggato vā parisaggato vā, ekassa veko na musā bha(n・)eyya;
Na bhā(n・)aye bha(n・)ata(m・) nānujaññā, sabba(m・) abhūta(m・) parivajjayeyya.

日本語訳
(398)
また飲酒を行ってはならぬ。この(不飲酒の)教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。―これは終に人を狂酔せしめるものであると知って―。
(399)
けだし諸々の愚者は酔のために悪事を行い、また他の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。この禍いの起るものとを回避せよ。それは愚人の愛好するところであるが、しかし人を狂酔せしめ迷わせるものである。

出典:<原文>"The Sutta-nipāta(Culavaggo,Dhammikasuttam)"PTS
<日本語訳>中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫,P82-83

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