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人は阿留辺幾夜宇和*1と云[いふ]七文字を持[たも]つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり、乃至帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此あるべき様を背く故に、一切悪[わろ]きなり。
人は「あるべきようわ」という七文字をたもつべきである。僧侶は僧侶の「あるべきよう」。在俗の者は在俗の者の「あるべきよう」である。および帝王は帝王の「あるべきよう」、臣下は臣下の「あるべきよう」である。(それぞれが)この「あるべきよう」に背いた行いをするために、(社会の)すべてが悪く、おかしくなるのである。
*1 阿留辺幾夜宇和[あるべきようわ]…『遺訓』に一貫する明恵上人の信条を、七文字で端的に現していると言える言葉。『遺訓』は基本的に僧侶に対して説かれた言葉の集成であるが、ここでは僧俗共に、その立場に応じて「現にある」規範規律を守り、その立場に応じて為すべき事を成せと諭している。
現代の人には、この言葉を「自分の本当にすべきことを模索し云々」「日々の反省を云々」「モノとココロが云々」などと、こねくり回して浪漫的に解釈する人が多いようだが、蛇足である。また、ときとして、この言葉を「封建社会の身分制を是とし、その意味における人それぞれ定められた分際を守るべきであるという、為政者からすればすこぶる都合が良く、また不合理な差別を容認する前時代的けしからん言葉である。明恵は差別主義者であった」などと解する者が稀にあるようである。しかし、この言葉が発せられた当時、ある程度の身分制はあってもそれは流動的であって、厳密な固定的身分制など存していない。そもそも、民主主義を標榜する現代社会にても現前とそれがあるように、なんらか立場の高下のない社会などあり得ない。
また、「すべては変わりゆくものである。よって、その場その場で異なる状況に即応して対処せよ」などという状況倫理を言ったものでもない。これは一見、日本人がもっとも好む、適当な解釈に思われるかもしれぬが、それは往々にして、時々の勢力ある方へへつらわんとする「ご都合主義」に転ずる危険を大いにはらむ。愚かな解釈と言えよう。
明恵上人は、「その場その場の状況に即応を」などといった状況倫理など、全く説いていない。これは「人によって異なる立場・役割について、亀鑑とすべき基準・原則があるならば、それに自身の恣意的解釈を施さず従い、為すべき事を為し、為すべきでないことは為さずにあれ」と、その言葉通りそのまま理解すべき言葉である。従うべきはコロコロと変わりゆく状況ではない。これは『遺訓』全篇を読むことによって理解できるであろう。現在もこの言葉は、すべての合法的職業や立場について言い得る普遍的なものである。もっとも、この言葉を本当に理解するには、仏教(といっても、それは何処かの宗派の解釈によって凝り固まり偏ったものでなく、直接に様々な仏典)を学び理解することによってこそ、初めてなされるであろう。
以下に『栂尾明恵上人伝記』巻上にも見られる、上人の「阿留辺幾夜宇和」の逸話を付録した。第二篇の法語と重なる点もあるが、上記本文と併せ読んで理解の助けとされたい。→本文に戻る
『栂尾明恵上人伝記』巻上に見る「あるべきようわ」(原文)
或時[あるとき]上人語て曰[いわ]く、我に一の明言[みょうごん]あり。我は後生[ごしょう]資[たすか]らんとは申さず。只現世に有[ある]べき様にて有[あら]んと申[もうす]也。聖教[しょうぎょう]の中にも行ずべき様に行じ、振舞[ふるまう]べき様に振舞へとこそ説[とき]置[おか]れたれ。現世には左之右之[とてもかくても]あれ、後生計り資[たす]かれと説[とか]れたる聖教は無きなり。仏も戒を破て我を見て何の益かあると説給へり。仍て阿留辺幾夜宇和と云七文字を持べし。是を持[たもつ]を善とす。人のわろきは態[わざ]とわろき也。過ちにわろきには非ず。悪事をなす者も、善をなすとは思はざれども、有べき様にそむきて、まげて是をなす。此の七字を心にかけて持たば、敢て悪き事有べからずと云々。
『栂尾明恵上人伝記』巻上に見る「あるべきようわ」(現代語訳)
ある時、明恵上人が語って言った、「私には一つはっきりと言い切れることがある。私は来世に助かろうなどとは思わない。ただ現世にあるべきようにあろうと言うのである。仏典の中にも「修行すべきように修行し、振る舞うべきように振る舞え」とこそ説き示されているのだ。「現世ではどうだろうと、来世にこそ救われる」などと説いている仏典は無いのだ。仏陀も「戒を破っておきながら私を見たところでどんな益があるのか」とお説きになっている。だから「あるべきようわ」という7文字をたもつべきである。これをたもつことを「善」とする。人が悪いのは故意に悪いのである。意図せずして悪いのではない。悪事を行う者も、善事を行っているとは思ってはおらず、あるべきように背いて、あえて悪事をなしているのである。この(「あるべきようわ」という)七字を心がけてたもてば、あえて(人が)悪いことのあるはずもないのだ」と。
我は後世[ごせ]*1たすからんと云[いふ]者に非ず。ただ現世に先[まづ]あるべきやうにてあらんと云者なり。
私は(この今の命が終わって、生まれ変わる次の)未来の生にて救われようなどと思ってはいない。ただこの今現在においてまず「あるべきよう」にあろうとしているのである。
*1 後世(ごせ)…来世。ここでの言葉は、当時法然が説いていた、末法にあっては人はいかなる努力をしてもこの世で救われることはないから、阿弥陀仏をこそ信仰し、「南無阿弥陀仏」と唱えることによって死後に極楽往生して救われんとする浄土教を意識。それを暗に批判しての言葉であろう。明恵上人が言っているように、本来の仏教にこのような思想はない。仏教とは、この世で、他者によるのではなくみずからの正しい努力によって、自らを救うことを説く道である。→本文に戻る
仏法修行は、けきたなき心*1在まじきなり。武士なんどは、けきたなき振舞しては、生ても何かせん。仏法もかいなめく*2りて、人に随て、尋常[よのつね]の義*3共にて、足[た]りなんと思ふべからず。叶[かな]はぬまでも、仏智の如く、底を究めて、知んと勤[はげ]むべし。多く知らずば、非学生[ひがくしょう]*4とこそ、云れんずれども、其は苦しからず。かいなめくりて、けきたなき心有る可からず。左様にては、頭を丸[まろ]めたりと云[いふ]計[ばかり]にて、人身[にんじん]を失はぬまでも有がたし。すすき法師*5など云田楽法師*5に、何ぞ異ならんと云々。
仏教を修行するに、粗暴な心をもってするなどあってはならない。武士などは、粗暴な振る舞いをしているが、(そんな人生を)生きたところで何だというのか。仏の教えをいとも軽んじて、(世間の)人を真似、(たいした努力も伴わない)世間並のことだけをやって、「(これが私の出来ること。これくらい自分の出来ることだけやっていれば)充分だ」などと思ってはならない。ゆきとどかなくとも、仏陀の智慧のように、(モノの)本質を見抜き、知ろうと努力すべきである。博識でなければ、「学僧でない」などと、(やや軽蔑され)言われるであろうが、そんなことなど差し支えない。(大切なのは、仏の教えを)いとも軽んじて、粗暴な心持ちであってはならない(ことである)。であるから、ただ頭を剃って(出家して)いるというだけで、「人として生まれたこの体を失わないだけでアリガタイ」(などと言うのは)。すすき法師などという田楽法師に、すこしも違わない(詮無い者)ではないか。
*1 けきたなき心…気穢き心。「け」は接頭辞。不純な、粗暴な心。→本文に戻る
*2 かいなめく…いとも軽んじて。【岩波】「底本「かく」を「かい」に訂正。「かい」は「かき」の音便で、動詞に冠して語義をつよめる。「なめ」は無礼。」→本文に戻る
*3 尋常[よのつね]の義…世間並みのこと。→本文に戻る
*4 非学生[ひがくしょう]…『阿留辺幾夜宇和』を通じていわれる「学生[がくしょう]」とは、現代言われるような学生[がくせい]のことではなく、むしろ学問をもっぱらにする僧、「学僧」の意。あるいは単に「仏典に詳しい物知りの僧」という意と捉えても可であろう。当時、難関の試験を通過した僧侶は「学侶[がくりょ]」と言われ、雑事に従事する行人[ぎょうにん]や堂衆[どうしゅ]といわれる僧侶より上位に位置した。律令制がある程度機能していた平安中期まで、僧侶は一種の国家公務員であり、中でも学侶は高級官僚とも言うべき高い地位であった。→本文に戻る
*6 田楽法師…田楽をもっぱらとする僧形の芸能者。実際に僧侶身分である者と、僧侶でない在俗の者とがいたようである。田楽とは、平安期、民間の農耕儀礼を遊芸化した芸能。田植時、田の神を祀って歌い舞ったのが原形とさえる。鎌倉期から室町期にかけ流行した。猿楽や能楽の起源、原型と言われる。次第に賤民の専業とされるようになり、近世は被差別階級の人々のみがこれを伝えた。鎌倉期には東大寺や興福寺の仏前にて、僧侶によって法会の中で執りおこなわれることがあった。→本文に戻る
上古*1、仏法を愛楽[あいぎょう]*2しけん人の心は、此の比[ごろ]名利[みょうり]*3に貪する人の如くこそありけめと覚[おぼゆ]ると云事、予多年云事にて有[ある]に是[これ]に少も違[たがわ]ぬ文、『阿含経[あごんきょう]』*4に有けり、後日に之を見よ云々。
「(釈尊やその弟子達がまだ健在であったほどの)古い昔、仏教を願い求める人の心は、最近の名誉や財産を貪る人のごとく(熱心なもので)あったであろうと思う」とは、私は長年言ってきたことであるがこれに少しも違わない文言が、『阿含経[あごんきょう]』に説かれていた。後日(『阿含経』を開いて)この文言を見てみなさい。
*1 上古[じょうこ]…大昔。もっとも、明恵上人は、『阿留辺幾夜宇和』において、この言葉を「釈尊や弟子達が健在だった当時」という意味で用いている。→本文に戻る
*3 名利[みょうり]…「名聞利養[みょうもんりよう]」の略。名誉・名声と利益・財産の意。→本文に戻る
*4 『阿含経[あごんきょう]』…『雑阿含経[ぞうあごんきょう]』の「有二種財。銭財及法財。銭財者従世人求。法財者従舍利弗大目腱連求。如来已離施財及法財」(大正2,P177上段)を引いているか。【岩波】では「『別訳阿含経』(大正二・383上−中)、『有部毘奈耶雑事』巻三十七(大正二四・390中)、『長阿含遊行経』(大正一・18中)、『仏般泥?経』(大正一・167下以下)など」を典拠として挙げている。しかし、そのいずれにも明恵上人の引く文に対応する文言はない。底本編者による錯誤であろう。→本文に戻る
吾は人に追従するなんど、申されんは、今は苦しからず。心に全く名聞利養の望なし。又仏像経巻を勧進[かんじん]*1してとらせんなど申[もうす]事だにもなし。其より下は、衆生界*2に向ては、随分の慈心*3を以てせざらん外[ほか]は、別の事有べからず。乞食[こじき]癩病[らいびょう]なりとも、我を侮[あなづ]るなんと、思はれん事は、心うき恥*4なり。
私が他人に媚びへつらっているなどと、言われても、別に気にすることではない。(私の)心に世間での名声や金銀財産への願望などないのだ。また仏像(を作り)や経巻(を書写する)のための資金集めをして(見返りとして何事かを)与えようと言うことなどもない。そんなことよりも、生きとし生けるものに対して、相当なる慈しみの心を持つこと以外の、別の事にかかずらってはならない。(世間から蔑視されている)乞食や癩病患者であっても、自分が軽蔑されていると、思われることは、つらく恥べきことなのである。(よって、相手が誰であれ、軽蔑してはならない。軽んじてはならない。)
*1 勧進[かんじん]…寺社あるいは仏像の建立・修理、あるいは経典類の書写などのために、人々に勧めて寄付を募ること。→本文に戻る
*2 衆生界[しゅじょうかい]…生きとし生けるものの世界。「衆生」とは意識あるモノの意。→本文に戻る
*3 慈心[じしん]…生きとし生けるものを慈しむ心。他者に安楽あれ、幸せであれと願う心。伝統的には、「慈」とは「与楽(楽を与える)」の意とされる。→本文に戻る
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