真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 戒律講説

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1.戒律とは

戒律とは何か

戒律という言葉

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2.戒について

戒とは何か 

戒の伝統的定義

五戒

八戒

八齋戒

十戒

十善戒

十重四十八軽戒(十重禁戒・菩薩戒・梵網戒)

三聚浄戒(摂律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒 )

三昧耶戒(三摩耶戒)

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3.戒相詳説

不殺生 ―なぜ生き物を殺してはいけないのか(準備中)

不偸盗 ―なぜ盗んではいけないのか(準備中)

不邪淫 ―なぜ不純な男女関係を結んではいけないのか(準備中)

不妄語 ―なぜ嘘をついてはいけないのか(準備中)

不飲酒 ―なぜ酒を飲んではいけないのか

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4.律について

律とは何か

律の成立

律蔵とは何か

律蔵の成立

律の構成

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5.僧伽について

僧伽(サンガ)とは何か

現前僧伽と四方僧伽 ―平等と和合

結集 ―仏滅後の僧伽

根本分裂 ―分裂した僧伽

枝末分裂 ―部派仏教

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6.部派仏教について

小乗十八部

説一切有部所伝の僧伽分派説(『異部宗輪論』)

大衆部所伝の僧伽分派説(『舎利弗問経』)

セイロン所伝の僧伽分派説(『島史』・『大史』等)

チベット所伝の僧伽分派説(『ターラナータ仏教史』)

支那・日本における僧伽分派に対する伝承と見解

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7.仏教徒とは何か

七衆 ―仏教徒の七つのありかた

比丘

比丘尼

式叉摩那

沙弥

沙弥尼

優婆塞・優婆夷

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8.『四分律』講説

『四分律』とは

『四分律』戒相

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9.日本仏教の伝統的戒律観を示す諸典籍

真人元開 『法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記(唐大和上東征伝)』

 日本へ律を伝えるため、五度にわたって渡航を失敗するも六度目の天平勝宝五年〈753〉に来訪。ついに伝律の偉業を成し遂げた鑑真大和上の、真人元開(淡海三船)による伝記。

『養老律令』令第三 「僧尼令」

 天平宝字元年〈757〉に発布された、朝廷が僧尼を統率するために布いていた法律。平安中後期にはほとんど空文化していくが、形骸的とはいえ、以来明治維新を迎えるまで有効だった。

最澄 『願文』

 延暦四年〈785〉、東大寺の戒壇院にて具足戒を受けた最澄が、義務であるはずの東大寺での律の修学もそこそこに比叡山に入って草庵を結び、修学修禅の傍らに著したとされる誓願文。最澄が二十歳から三十二歳の間(おそらくは二十台前半)に著したと伝えられている。

最澄 『末法燈明記』

 延暦二十年〈801〉、最澄が、時代が末法の世にさしかかりつつあることを理由に、国家が国法によって僧尼を統制する事に抗議。破戒・無戒の堕落しつくした僧であっても、社会はこれを尊敬して布施を行うべきことを主張した、とされる書。最澄齢三十四の頃の著と伝説される。
 しかしながら、ほぼ間違いなく、何者かによって最澄に仮託され捏造された偽書である。けれども、特に鎌倉新仏教と言われる浄土宗ならびに真宗、そして日蓮宗には、最澄真作であると受け入れられ、決定的重大な影響を与えた。

最澄 『山家学生式』

 最澄によって著された、弘仁九年〈818〉五月十三日の「天台法華宗年分学生式(六条式)」、弘仁九年〈818〉八月二十七日の「勧奨天台宗年分学生式(八条式)」、弘仁十年〈819〉三月十五日の「天台法華宗年分度者回小向大式(四条式)」の三部をまとめたもの。
 最澄が打ち立てた日本天台宗の僧徒が得度して間を置かずに離散するという危機的な状況にあって、三国に前代未聞なる独自の戒律観を主張し、それに基づいた菩薩僧を生み出すことを、朝廷に国家制度として認めてもらうために次々上奏した文。

空海 『弘仁遺誡』

 弘仁四年〈813〉、弘法大師空海が、齢四十才の時、高雄山寺にて開かれた灌頂を受けた僧俗の弟子達に示したとされる教誡。

空海 『承和遺誡』

 承和元年〈834〉、弘法大師空海が、その晩年六十二才の時、特に出家の弟子達に対して示したとされる教誡。

覚鑁 『密厳院発露懺悔文』

 鳥羽上皇の推挙により、観賢以来、東寺長者が兼務することが慣例となっていた金剛峯寺座主職に就いた覚鑁[かくばん]が、旧来の上座僧らの猛烈な反発にあってその職を辞し、密厳院に退して長期に渡る無言行(修禅)をなした、保延元年〈1135)から五年〈1140〉の頃に著したとされる懺悔文。

栄西 『興禅護国論』

 建久九年〈1198〉頃に著された、栄西禅師の主著。栄西禅師が宋より伝来した臨済禅が、邪義・邪禅を説く大日房能忍の達磨宗とは全く異なる正統なものであることを主張。また法然などが主張して流行を見せ始めていた浄土教および末法思想に真っ向から反対し、厳しく持戒持律しつつ禅と密教とを修めることによって、国家鎮護と利益衆生が果たされることを主張した書。
 非常に多くの経典・律蔵・論書が引用され、その主張が根拠あり、正しいものであることが論じられている。

栄西 『斎戒勧進文』

 元久元年〈1204〉四月七日に著された、栄西禅師が日本全国の僧俗の門徒らに持戒を促した勧進文。戒律に対する知識、およびその実行がほとんどなされていなかった当時、まずは斎(不非時食)を守り、そして菩薩戒を護持することを、僧俗の門人らに呼びかけている。

栄西 『日本仏法中興願文』

  元久元年〈1204〉四月二十二日に著された、栄西禅師の願文。当時の日本の僧尼にはほとんど顧みられなくなって廃れていた戒律を復興し、僧尼が再び厳持することによってこそ日本の仏教を中興せんとする禅師の願いと決意とを、特に公家に対して表明したもの。

貞慶 「興福寺奏状」

 法然によって創始された専修念仏、いわゆる浄土教を国家として禁止すべきことを訴えた訴状。法然が主張したところの専修念仏における、伝統的仏教の立場からする過失を列挙したもの。

貞慶 『解脱上人戒律興行願書』

 承元年間〈1207-1211〉、解脱上人貞慶が、興福寺の律宗を復興するため、ならびに興福寺内に律学の道場として常喜院を建立するために記した願文。

明恵 『栂尾明恵上人遺訓(阿留辺畿夜宇和)』

 栂尾明恵上人の没後五年後の嘉禎四年〈1238〉、上人が残した数々の教誡を、その弟子高信がまとめ記したもの。『阿留辺畿夜宇和[あるべきようわ]』という別題でも親しまれる。

叡尊 『感身学正記』(抄)

 嘉禎二年〈1236〉、日本仏教おける第一期戒律復興を現実のものとした一人、興正菩薩叡尊自身による書。叡尊が如何にして戒律復興を志すこととなったか、またその戒律観などが記されている。

『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』

 慶長七年〈1602〉、日本仏教における第二期戒律復興運動の嚆矢となった槙尾明忍上人の伝記。近世の日本仏教史において多大な、そして重大な影響を及ぼした人ながら、それを知る者はいまやほとんど存しない。

慈雲 『律法中興縁由記』

 慶長七年〈1602〉、槙尾明忍上人らが、栂尾にて自誓受戒に由り戒律復興するまでの略記、ならびにその後、慈雲尊者の師である忍綱貞紀和上に到るまでの縁起を簡潔に記したもの。

慈雲 『根本僧制』

 寛永二年〈1749〉、慈雲尊者が宣揚した「正法律」の根本的指針として著した書。「釈尊に帰れ」とも言うべき思想に貫かれる。

河口慧海 『在家仏教』

 大正十五年〈1926〉河口慧海が、現代の人は純粋に在家信者としてのみ仏教を実践すべき事を主張する、「在家仏教」を宣揚した書。慧海は、日本国内だけに限らず南アジア・東南アジア各地での僧伽(サンガ)の堕落したあり方を目の当たりにした結果、それら出家者による仏教を完全否定した。

資延敏雄 「末法味わい薄けれども教海もとより深し」

 高野山真言宗総本山金剛峰寺第411世座主・資延敏雄が、『六大新報(2006新年号)』に寄稿し、その巻頭を飾った文。堕落の極みに達していると言える日本仏教の僧徒、特に自宗である真言宗の僧徒を痛烈に批判。僧侶としてあるべき姿に帰ることへの願いを披瀝。

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10.明恵上人の言葉

明恵上人とは

明恵上人の言葉

明恵上人の手紙

『阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)』を読む

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