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天平宝字元年(757)に発布され、形骸的とはいえ、以来明治維新を迎えるまで有効だった、朝廷が僧尼を統率するために布いていた法律。
延暦20年(801)、最澄が、時代が末法であることを理由に、国家が国法によって僧尼を統制する事に抗議。破戒・無戒の僧であっても、社会はこれを尊敬して布施を行うべきことを主張した書。法然や親鸞、日蓮などに強い影響を与えた。
弘仁四年(813)、空海が40才の時、高雄山寺にて開かれた灌頂を受けた僧俗の弟子達に示した教誡。
承和元年(834)、空海がその晩年62才の時、特に出家の弟子達に対して示した教誡。
承元年間(1207-1211)、解脱上人貞慶が、興福寺の律宗を復興するため、ならびに興福寺内に律学の道場として常喜院を建立するために記したという興律の願文。
鎌倉期初頭に栂尾にて活躍した、華厳宗中興の祖といわれる明恵上人高弁が残した数々の教誡や、当時の仏教界への痛烈な批判の言葉を、その弟子高信が、上人没後5年後の嘉禎四年(1238)にまとめ記し終わったもの。『阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)』という別題でも親しまれている。
慈雲尊者が宣揚した、「釈尊に帰れ」とも言うべき思想「正法律」の根本的指針として著した書。尊者は生涯、この指針に従って、仏教の本来を求め、仏僧としての「あるべきようわ」を貫き通した。
河口慧海が、出家者による仏教を完全否定した上で、純粋に在家信者としてのみ仏教を実践する事を主張した「在家仏教」を宣揚した書。
高野山真言宗総本山金剛峰寺第411世座主・資延敏雄(すけのぶ びんゆう)が、『六大新報(2006新年号)』に寄稿し、その巻頭を飾った文。堕落の極みに達していると言える日本仏教の僧徒、特に真言宗の僧徒を痛烈に批判。僧侶としてあるべき姿に帰ることへの願いを披瀝している。
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