真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 最澄 『末法燈明記』(1)

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1.原文

『末法燈明記』

本朝沙門最澄撰

夫範衞一如。以流化者法王。光宅四海。以埀風者仁王。然則。仁王法王。互顯而開物。眞諦俗諦。逓因而弘教。所以玄籍盈乎宇内。嘉猷溢乎天下。爰愚僧等。率容天網。府仰嚴科。未遑寧處。

然法有三時。人亦有三品。化制之旨。依時興替。毀讚之文。遂人取捨。夫三古之運。盛衰不同。五五之機。慧悟又異。豈據一途齊。復就一理整乎。

故詳正像末之階降。或彰破持僧之行事。於中有三。初決正像末。次定破持僧之事。後擧教比例。

初決正像末者。諸説不同。且述一説。大乘基。引賢劫經言。佛涅槃後。正法五百年。像法一千年。此千五百年後。釋迦法滅盡。不言末法。準餘所説。尼不修八敬而懈怠故。法不更増。故不依彼。

又涅槃經。於末法中。有十二萬大菩薩衆。持法不滅。此據上位故亦不用。

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2.訓読文

『末法燈明記』

本朝沙門最澄撰

夫れ一如に範衛[はんえい]して、以て化[け]を流[し]く者は法王なり。四海に光宅して、以て風を垂るる者は仁王なり。然れば則ち、仁王と法王と、互に顕して物を開き、真諦と俗諦*1と、逓[たがい]に因りて教を弘む。所以[ゆえ]に玄籍[げんせき]宇内[うだい]に盈[み]ちて、嘉猷[かゆう]天下に溢る。

爰[ここ]に愚僧等、天網[てんもう]に率容し、厳科[ごんか]に府仰[ふぎょう]す。未だ寧処[ねいしょ]するに遑[いとま]あらず。

然るに法に三時*2有り。人に亦三品[さんぼん]*3あり。化制の旨、時に依りて興替し、毀讃[きさん]の文、人を遂ひて取捨す。夫れ三古の運、盛衰同からず。五五の機、慧悟又異り、豈[あに]一途に據[よ]りて齊[ととの]ひ、復一理に就きて整へんや。

故に正像末[しょう・ぞう・まつ]の階降を詳[つまびらか]にし、或は破持僧の行事を彰[あらわ]す。中に於て三有り。初には正像末を決し、次には破持僧の事を定め、後には教を挙げて比例す。

初に正像末を決すとは、諸説同からず。且[しばら]く一説を述べん。大乗の基*4、『賢劫経』を引きて言く、「仏涅槃の後、正法五百年、像法一千年、此千五百年の後、釈迦の法滅尽す。末法を言はず*5と。餘の所説に準ぜば、「尼[あま]八敬を修せずして懈怠[けだい]するが故に、法更に増せず*6と。故に彼に依らず。

又『涅槃経』に、「末法中に於て、十二万の大菩薩衆有りて、法を持して滅せず*7と。此は上位に拠るが故に亦用ひず。

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3.現代語訳

『末法燈明記』

本朝沙門最澄撰

そもそも真理を守り従って、(みずから悟った真理で)もって人々を教導する者は(出世間の長たる)法王である。(仁政によって)天下を治め、その(徳の)風を世界に吹かせる者は(世間の長たる)仁王である。であるから、仁王と法王とが、互いに(その徳を世界に)顕しあって万物(の真理)を明らかにし、真諦と俗諦とが、たがいに連携して(仏の)教えを広めていく。これによって仏典は世界中に伝わり、喜ばしい政治が天下に布かれるのだ。

(ところが)いまや愚僧(たる私最澄)などは、天網(のように朝廷が張り巡らせた法律「律令格式」)に従い、そのあまりに厳しい科刑にかしこまって恐れおののいている。(そんな状況であるから、私達僧は、)落ち着き安心する一時すらもないほどである。

ところで仏陀の教えには三時(という時代毎の興廃)がある。人には三品(という気質や能力の別)がある。(仏陀の説いた)教えと戒律の趣旨は、その時代ごとに(適切なものが説かれているから時代が異なれば)変わり、(それについての)非難あるいは賞賛の文言も、人によって様々に取捨される。そもそも(中国の聖人達の伏儀の上古・周公の中古・孔子の下古といった)三古の運も、その盛衰は一様ではなかった。仏陀はその教えに五つの段階を設けて人それぞれ適応する教えを説かれたのであり、人の智慧の高さや悟りの深さにも異りがあるのだから、どうして一つの方法によって(人々が)更正し、また一つの理でもって(人々を)導くことが出来ようか。(いや、そんなことは出来はしないのである。)

そこで正法・像法・末法(と仏陀の教え)が段階的に荒廃することを詳細にし、あるいは僧の破戒と持戒の定義を明確にする。その過程で(私最澄は)三つの段階を踏んでいる。初めに正法・像法・末法の年代を決定し、次に僧における破戒と持戒の定義をし、最後に経典を挙げてその説の正しいことを確認する。

初めに正法・像法・末法の年代を決定するが、これに諸説あって不同である。(いまは)仮に(その中の)一説を述べよう。窺基は、(その著『観弥勒上生兜率天経賛』にて)『賢劫経』を引用してこのような説を述べている。「仏涅槃の後、正法は五百年間、像法は一千年間、この千五百年の後に、釈迦の教えは滅びる。(『賢劫経』では)末法を説いていない」と。(窺基の)他の所説によれば、(『般若会釈』に)「尼僧が八敬法を実行せず怠け堕落したがために、(一千年正しく行われたはずの)仏陀の教えが(五百年以上の)長きには世に行われなくなった」とある。よって窺基の説は採らない。

また『涅槃経』には、「末法の中にあって、十二万の大菩薩達があり、仏陀の教えを保っており(仏陀の教えが)滅亡することがない」と説かれている。(しかし、)これは(「大菩薩」という修行を相当に積んだ)上位の者について特に言われたことであるからまた採用しない。

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4.語注

*1 真諦[しんたい]と俗諦[ぞくたい]…「真理と、世間一般で承認されている事実あるいは常識」の意。「諦」は真理の意。仏教では、真理の理解に二つのレベルを設ける。「真諦」は、言語を離れた、言葉で表現し得ない究極の真理。「俗諦」は、言葉にて語り得る、世間一般にて承認されている道理。時代や土地が変わると変化する、相対的なもの。もっとも、この言葉は人によって解釈が異なり、人によっては過度に敷衍して使用する場合がある。→本文に戻る

*2 三時[さんじ]…釈尊が滅度されてのちを、正法・像法・末法と、時代を三分割した、一部の仏教宗派における時代観。時代が下る毎に、仏教が純粋に行われなくなり、ついには滅びるなどとする説。。→本文に戻る

*3 三品[さんぼん]…人の能力や立場などの上下・優劣を、上品[じょうぼん]・中品[ちゅうぼん]・下品[げぼん]の三つに分類したもの。→本文に戻る

*4 三古[さんこ]…中国の儒教における聖人達が活躍した昔を、三にわけたもの。伏儀の上古、周公の中古、孔子の下古。→本文に戻る

*5 五五の機…「機」は能力の意。「五五」とは具体的になにを示すか判然としない。法相宗の「五性各別[ごしょうかくべつ]」説と智顗[ちぎ]の「五時教判」、あるいは慧観の「五時教判」と智顗[ちぎ]の「五時教判」を併記したものか。→本文に戻る

*6 大乗の基[き]…中国唐代は長安の学僧。玄奘三蔵の門下となり、彼がインドから持ち帰った唯識の重要典籍『成唯識論[じょうゆいしきろん]』の翻訳に協力。後、これの注釈書『成唯識論述記』あるいは『大乗法苑義林章』などを著す。法相宗の祖とされている。諡号は慈恩大師。「大乗基」、「窺基[きき]」、「基法師」などと呼称される。現在は「窺基」との呼称が一般的であるから、現代語訳はこれを用いる。→本文に戻る

*7 佛涅槃の後云々…大乗基『観弥勒上生兜率天経賛』「賢劫經云。人壽一千二百歳釋迦始生都史。人壽一百歳出世作佛。都史天壽四千歳人間當五十六億七千萬歳。正法五百年。像法一千年。不論末法」(大正38,P276中段)。→本文に戻る

*8 尼八敬を修せず云々…窺基『金剛般若論会釈(以下『般若会釈』)』,「佛初記別正法一千年像法一千年。末法一萬年。由度女人。滅減正法唯五百年。於中兩説。一云正法。今者但五百年由度女人。減五百年。歳雖説八敬不減正法。由彼不行正法還滅」(大正40,P736上段)を言っているか。
■ 八敬[はっきょう]とは、「八敬法」の略で、比丘尼が、律以外でも必ず保たなければならない八つの規定。その八つとは、「一.法臘(ほうろう)が百歳であっても、一歳に満たない比丘をも礼拝しなければならない。二.比丘を罵ったり謗ったりしてはならない。 三.比丘の罪・過失をみても、それを指摘したり、告発したりしてはならない。四.式叉摩那(しきしゃまな)として二年間過ごせば、具足戒を受けても良い。五.僧残罪を犯した比丘尼は、比丘・比丘尼の両僧伽で懺悔しなければならない。六.半月毎に比丘のもとに、教誡を受けなければならない。七.比丘のいない場所で、安居(あんご)してはならない。八.安居が終われば、比丘のもとで自恣(じし)を行わなければならない」という箇条。
八敬法は、仏陀の養母マハーパジャパティが、仏陀が故郷に立ち寄ったとき、仏陀に出家の許しを請うも断られ、アーナンダ尊者のとりなしによってようやく許可されたときに、女性出家者が終生守るべき箇条として説かれた。仏陀は、男性出家者には無い規定である八敬法を護持するならば、女性でも出家してよいとしたのである。しかし、女性が出家したことによって1000年は正しく伝わったはずの教えが、半分の500年になったと仏陀が言ったという。これは大乗小乗とわず多くの仏典が伝えている。→本文に戻る

*9 末法中に於て云々…曇無讖訳『大般涅槃経(以下『涅槃経』)』巻十八,「爾時凡夫各共説言。哀哉佛法於是滅盡。而我正法實不滅也。爾時其國有十二萬諸大菩薩善持我法」(大正12,P474上段)の取意引用であろう。慧厳訳の『涅槃経』にもこれと全同の一節がある(大正12,P716下段)。→本文に戻る

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