真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ 最澄 『末法燈明記』(10)

10ページ中10ページ目を表示
序説 ・凡例 | 1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  8 |  9 |  10 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

・ トップページに戻る

1.原文

鹿子母經云。別請五百羅漢。猶不得名福田。若施一似像惡比丘。得無量福。

當代道人。已好別請。何處植福。持戒之人。豈加之哉。既不踐王地上。亦不許飲王地水。五千大鬼。當罵大賊。嗟乎持戒僧衆。何於其改過乎。

又仁王經云。若我弟子。爲官所使。都非我弟子。立大小僧統。共相攝縛。當爾之時。佛法滅沒。是爲破佛法。破國因縁云云

推仁王等。拜僧統。以爲破僧之俗。彼大集等。稱無戒。以爲濟世之寶。豈留破國之蝗。還弃保家之寶。

須不分二類。共飡一味。僧尼不絶跡。鳴鐘不失時。然乃允末法之教。令有國之道。

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ 戒律講説へ戻る

2.訓読文

『鹿子母經』に云く、「五百の羅漢を別請せんは、猶ほ福田と名くることを得ず。若し一の似像の惡比丘に施せば、無量の福を得ん」*1と。

當代の道人、已に別請を好めり。何の處に福を植えんや。持戒の人、豈之の如くならんとすと。既に王の地上を踐まず。亦王の地水を飲むことを許さず。五千の大鬼、當に大賊なりと罵むべし。嗟乎持戒の僧衆、何ぞ其れに於て過ち改めんや。

又『仁王經』に云く、「若し我弟子、官の爲に使は所れんは、都て我が弟子に非ず。大小の僧統を立てて、共に相攝縛せん。爾の時に當りて、佛法滅沒す。是を佛法を破し、國を破する因縁と爲す」*2云云

『仁王』等を推するに、僧統を拜する。以て破僧の俗と爲す。彼の『大集』等には、無戒を稱して、以て濟世の寶と爲す。豈破國の蝗[いなご]を爲め、還保家の寶を弃てんや。

須く二類を分たず、共に一味を飡して、僧尼跡を絶たず、鳴鐘時を失せざるべし。然れば乃ち末法の教、國を有た令むるの道に允はん。

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ 戒律講説へ戻る

3.現代語訳

『鹿子母経[ろくしもきょう]』にはこうある。「五百人という阿羅漢達を(それぞれ指名して食事に招待する)別請[べっしょう]したとしても、これは福徳を生じる善行とは言えない。もし一人でも(指名することなく食事の招待をしてやって来た)僧侶としての行業を全く備えない似非比丘に食事を接待したとしたら、計り知れない功徳となる」と。

現代の僧侶たちは、すでに(在家信者から指名されての食事の招待である)別請されることを望んでいる。(福田たる僧侶たちがこのようであるから在家信者は)どうやって功徳を積もうというのか。持戒の比丘が、どうしてそのような振る舞いをするであろうか。(持戒の比丘であれば、別請を好むなどということはあってはならないであろうに。)(『法行経』に説かれるように、別請を受けた者は)国王の領土を行けず、また国王の領土に湧き出る水を飲むことも許されず、五千の大鬼から、大賊だと罵られるであろう。嗚呼、(別請を望む過失ある)「持戒の比丘達」は、どうやってその過ちを改めるというのか。

また『仁王経[にんのうきょう]』にはこうある。「もし私の弟子で、国家によって使役される者は、皆わたしの弟子などでは無い。(国家が)大小の(サンガや僧侶たちを管理する為の機関である)僧統[そうとう]を設けて、監視・管理する、という様な時代が来れば、仏法は滅亡するであろう。国家が仏教を管理・監視することは仏法を滅亡させ、国を滅ぼさせる原因となる」と。

『仁王経』などの所説から推察すると、サンガを監視・管理する機関の存在を容認して、その管理下に甘んじることは、サンガを分裂させる卑しい行為である。あの『大集経』などには、無戒の僧侶を名付けて、世を救う宝としているのだ。どうして国を食い尽くすイナゴを保護して、むしろ家を守る宝を捨てるというのか。

是非とも持戒・破戒などと僧侶を二類にわけず、たがいに仏法という美味を食して、比丘・比丘尼の伝統を滅ぼさず、寺院の時を告げる鐘の音を絶やしてはならない。であるから末法における仏の教え(破戒・無戒の比丘を虐げることなく信仰して後援すること)は、国を安泰にさせる道としてそぐうものとなるのだ。

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ 戒律講説へ戻る

4.語注

*1 「五百の羅漢を別請せんは」云々…これも孫引きであろう。まず、『鹿子経』ならあるが、『鹿子母経』なる経典は「無い」。『優婆塞戒経』巻六,「是故我於鹿子經中。告鹿子母曰。雖復請佛及五百阿羅漢。猶故不得名請僧福。若能僧中施一似像極惡比丘。猶得無量福德果報」(大正24,P1065上段)。もっとも、ここに出す『鹿子経』は、経録にその名を留めるのみで現存しない。この経典は、僧侶が別請を受けることではなく、「在家者が別請をすること」を否定している。→本文に戻る

*2 「若し我弟子、官の爲に」云々…。→本文に戻る

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ 戒律講説へ戻る

10ページ中10ページ目を表示
序説 ・凡例 | 1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  8 |  9 |  10 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。