真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 最澄 『末法燈明記』(4)

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1.原文

問云。諸經律中。廣制破戒。不聽入衆。破戒尚爾。何況無戒。而今重論末法無戒。豈無瘡自以傷哉。

答此理不然。正像末法所有行事。廣載諸經。内外道俗。誰不披諷。豈貪求自身邪活。隠蔽持國之正法乎。但今所論。末法唯有名字比丘。此名字爲世眞寶。更無福田。設末法中。有持戒者。既是恠異。如市有虎。此誰可信。

問云。正像末事。已見衆經。末法名字。爲世眞寶。出何聖典。

答大集第九云。譬如眞金爲無價寶。若無眞金者。銀爲無價寶。若無銀者。鍮石偽寶爲無價寶。若無偽寶。赤白銅鐵。白鑞鉛錫。爲無價寶。如是。一切世間。佛寶無價。若無佛寶。縁覺無上。若無縁覺。羅漢無上。若無羅漢。餘賢聖衆。以爲無上。若無餘賢聖衆。得定凡夫。以爲無上。若無得定凡夫。淨持戒。以爲無上。若無淨持戒。漏戒比丘。以爲無上。若無漏戒。剃除鬚髪。身著袈裟。名字比丘。爲無上寶。比餘九十五種異道。最爲第一。應受世供。爲物福田。何以故。破能身。衆生所怖畏故。若有護持養育安置。是人不久。得住忍地已上経文

此文中。有八重無價。所謂。如來。縁覺。聲聞及前三果。得定凡夫。持戒。破戒。無戒名字。如其次第。各爲正像末之時無價寶也。初四正法時。次三像法時。後一末法時。由此明知。破戒無戒。咸是眞寶。

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2.訓読文

問て云く、諸の経律の中に、広く破戒を制して、入衆を聴[ゆる]さず*1。破戒尚に爾なり。何[いか]に況[いわん]や無戒をや。而るに今重ねて末法の無戒を論ず。豈瘡無きに自ら以て傷てんや。

答ふ此理然らず。正像末法の所有の行事は、広く諸経に載す*2。内外の道俗、誰か披[ひら]きて諷せざらん。豈自身の邪活を貪求[とんぐ]して、持国の正法を隠蔽せんや。但し今の論ずる所は、末法に唯名字[みょうじ]の比丘のみ有り。此名字を世の真宝と爲して、更に福田[ふくでん]*3無し。設[たと]ひ末法の中に、持戒の者有らんも、既に是怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ずべけん。

問て云く。正像末の事、已に衆経に見へたり。末法の名字を、世の真宝と爲すこと、何の聖典に出づるや。

答ふ『大集』の第九に云く、「譬へば真金を無価の宝と爲すが如し。若し真金無くんば、銀を無価の宝と爲す。若し銀無くんば、鍮石[ちゅうじゃく]偽宝を無価の宝と爲す。若し偽宝無くんば、赤白銅鉄、白鑞[びゃくろう]鉛錫を、無価の宝と爲す。是の如く、一切世間には、佛宝無価なり。若し佛宝無くんば、縁覚[えんがく]無上なり。若し縁覚無くんば、羅漢[らかん]無上なり。若し羅漢無くんば、余の賢聖衆を、以て無上と爲す。若し余の賢聖衆[けんじょうしゅ]無くんば、得定[とくじょう]の凡夫[ぼんぷ]、以て無上と爲す。若し得定の凡夫無くんば、淨持戒、以て無上と爲す。若し淨持戒無くんば、漏戒の比丘、以て無上と爲す。若し漏戒無くんば、鬚髪[しゅはつ]を剃除し、身に袈裟を著する、名字の比丘、無上宝と爲す。余の九十五種の異道に比すれば、最も第一爲り。応に世の供を受けて、物の福田と爲るべし。何を以ての故に。能身を破して、衆生に怖畏せ所るるが故に。若し護持し養育し安置すること有れば、是の人久からずして、忍地に住することを得ん」*4と。已上經文

此文の中に、八重の無価有り。所謂、如來と、縁覚と、声聞と及び前三果と、得定の凡夫と、持戒と、破戒と、無戒の名字と、其次第の如く、各正像末の時の無価の宝爲り。初の四は正法の時。次の三は像法の時。後の一は末法の時なり。此に由りて明に知ぬ。破戒無戒、咸な是真宝なることを。

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3.現代語訳

聞こう。諸々の経典や律典の中では、あらゆる面から(波羅夷罪や僧残罪などを犯した)破戒の者を罰して、僧伽の中に留めることを許してはいない。破戒した者はこの様に厳しく罰せられるのである。まして無戒の者がサンガの成員(つまり僧侶)たり得る訳などない。しかし、(あなたは先ほどから)再三にわたって末法の世における「無戒の僧」などというものについて論じている。どうしてありもしない瘡蓋[かさぶた]を剥くことが出来るというのか。

答えよう。あなたの言い分は誤っている。正法・像法・末法それぞれの時代における僧侶の有り様については、様々に諸々の経典に説かれているのだ。仏教や(儒教・道教など)その他の宗教の僧侶および在俗信者で、それらを読んでいない者があるというのか。(いや、そのような者はいないのである。)(皆がそのように自明なこととしているのに、)どうして(出家たる者が)自身の邪[よこしま]な生活を貪り求めて、国家を保ち安定させるところの正しい教え(仏教)を故意に衰退させるというのか。もっとも今(私が)主張しているのは、末法にはただ「名字の比丘(形ばかり・名ばかりの出家修行者)」しか存在していないということである。この「名字の比丘」を世間における掛け替えのない宝とする以外、他に(世間に平安という実りをもたらす)福田は無い。たとえ末法の世にあって、戒律を厳に守っている者があったとしたら、それはもはや正気の沙汰ではない。市街地に虎(の様な猛獣)が現れるようなものである。この様な者を誰が信じるというのか。

聞こう。正法・像法・末法における僧侶たちの有様について、すでに諸々の経典に説かれていることは確認した。では末法における(形ばかり・名ばかりの出家者)「名字の比丘」を、世間の真の宝とすることは、どの聖典に根拠があるというのか。

答えよう。『大集経』第九巻にこう説かれている。「例えば本物の黄金を(値が付けられないほどの)無上の宝とするようなものである。もし本物の黄金が無ければ、銀をもって至上の宝とする。もし銀が無ければ、真鍮や偽物の宝をもって至上の宝とする。もし偽物の宝も無ければ、赤白色の銅や鉄、白銅・鉛・錫を、至上の宝とする。このように、ありとあらゆる世間では、仏法は至上の宝である。もし仏法が無ければ、(劣った教えである小乗の一種たる)縁覚の教えが無上の宝である。もし縁覚の教えが無ければ、(劣った教えである小乗の一種たる)阿羅漢の教えが無上の宝である。もし阿羅漢の教えも無ければ、その他の賢者・聖衆をもって、無上の宝とする。もしその他の賢者・聖衆も無ければ、冥想によって平安への入り口の境地に至った凡夫をして、無上の宝とする。もしそのような凡夫もいなければ、戒律の規定を厳に保つ者をして、無上の宝とする。もし戒律の規定を厳に保つ者が無ければ、破戒の比丘をもって、無上の宝とする。もし破戒の比丘すら無ければ、(戒を受けることなく)ヒゲと髪を剃り、身に袈裟をまとうだけの、名ばかりの比丘を、無上の宝とする。(形ばかり・名ばかりの比丘であったとしても、)仏教以外の九十五種の思想家・宗教者と比較したならば、最上の存在である。まさに世間からの供養を受け、(その果報として善果をもたらす)福田となるであろう。なんとなれば、出家者と言いながらまったく形ばかり・名ばかりであるというその存在自体が、生きとし生けるものから怖れられるものだからである。もし(名字の比丘を)後援し支援し大切にすることがあれば、その人はそう遠くない将来、(あらゆるモノには実体の無い、移ろい行く「空」なるものであるという真理を認識する)「無生法忍[むしょうほうにん]」という境地に至ることが出来るだろう」と。以上が経文からの引用

この経典にある文中に、八段階で無上の宝が説かれている。いわゆる、如来と、縁覚と、(阿羅漢たる)声聞とおよび(不還・一来・預流という阿羅漢果に至るまでの)前の三つの境地と、冥想によって平安への入り口の境地に至った凡夫と、持戒の比丘と、破戒の比丘と、無戒の名字の比丘とが、この順番のまま、それぞれが正法・像法・末法という時に見合った無上の宝である。初めの四つは正法の時の無上の宝。次の三つは像法の時の。最後の一つは末法の時の無上の宝である。このようなことから明瞭に知られるだろう。破戒の比丘・無戒の比丘であっても、それらは誠に世の宝であることが。

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4.語注

*1 諸の経律の中に云々…日本で代表的なものとしては、たとえば『梵網経』、『四分律』が挙げられる。「入衆を聴さず」という程の破戒とは、『梵網経』では「十重禁戒」を犯すこと。 「衆[しゅ]」とはサンガを指す。律蔵では、「四波羅夷[はらい]罪」・「十三僧残[そうざん]罪」あるいは「二不定[ふじょう]罪」を犯すことである。これはすべての律蔵に共通して説かれる重罪。それらいずれか一つでも犯せば、波羅夷罪ならば僧団から永久追放。僧残罪なら一定期間の別住が課せられ、入衆は許されない。不定については、文字通り不定であり、場合によっては波羅夷罪や僧残罪、あるいは無罪もしくは未遂罪となる。ただし、『梵網経』の場合は、十重禁戒を犯したら波羅夷であるとしているが、これは律蔵と異なって永久追放を意味しない。経典の規定する方法で懺悔をしたならば許されるとしている。同じ語句であっても、その意味するところが違うため、注意する必要がある。
ちなみに、当時の日本の国法である律令(僧尼令)においても、そのような行為は(おそらく仏典に基づいて)禁じており、違反した場合は国家としても還俗あるいは科役させることが明記されている。→本文に戻る

*2 正像末法の所有の行事は云々…。→本文に戻る

*3 福田[ふくでん] …良い果報をもたらすもの。田に種をまき耕せば実りをもたらすように、人が(布施などの)善行を行えば、その果報として安楽をもたらすということから言われる。ここでは特に僧侶を指して福田といっている。もっとも、仏陀、僧侶達はもとより、病人や貧者をも福田と言うことがある。なんとなれば、彼らを率先して助け守れば、すなわち自身に福徳をもたらすということからである。他人のために助けるのではない、自分のために助けさせてもらうのである。いわゆる「情けは人のためならず」、これである。→本文に戻る

*4 「譬えば真金を」云々…「答大集第九云」などと言っているが、該当する一節が説かれているのは『大集経』巻五十五の「布閻浮提品第十七」である。「譬如眞金爲無價寳。若無眞金銀爲無價。若無銀者鋀石無價。若無鋀石僞寳無價。若無僞寳赤白銅鐵白鑞鉛錫爲無價寶。如是一切諸世間中佛寶無上。若無佛寶縁覺無上。若無縁覺羅漢無上。若無羅漢諸餘聖衆以爲無上。若無聖衆得定凡夫以爲無上。若無得定淨持戒者以爲無上。若無淨戒汚戒比丘以爲無上。若無汚戒剃除鬚髮身著袈裟名字比丘爲無上寶。比餘九十五種異道最尊第一。應受世供爲物福田。何以故。能示衆生可怖畏故。若有護持養育安置是人。不久得住忍地」(大正13,P363中段)。→本文に戻る

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