真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ 最澄 『末法燈明記』(6)

10ページ中6ページ目を表示
序説 ・凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  8 |  9 |  10 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

・ トップページに戻る

1.原文

又大集經二十八云。若有國王。見我法滅。捨不擁護。於無量世。修施戒慧。悉皆滅失。其國内出三種不詳事。乃至命終生大地獄。又同經三十一云。佛言。大王守護如法比丘一人。不護無量諸惡比丘。我今唯聽二人掌護。一羅漢。具八解脱。二須陀洹人云云

如是制文。往往數多。皆是正法明之制文。非像末教。所以然者。像季末法。不行正法。無法可毀。何名毀法。無戒可破。誰名破戒。又其時大王。無行而可護。由何出三災及失施戒慧。又像末時。無證果人。如何彼明聽護二聖。故知。上所説。皆約正法世。有持戒時。有破戒故。

次像法千年中。初五百年。持戒漸減。破戒漸増。雖有戒行。而無證果。

故涅槃七云。迦葉菩薩。白佛言。世尊。如佛所説。有四種魔。若魔所説及佛所説。我當云何而得分別。有諸衆生隨遂魔行。復有隨順佛所説者。如是等輩。復云何知。佛告迦葉。我般涅槃。七百歳後。是魔波旬漸起。沮壞我之正法。譬如獵師。身服法衣。魔王波旬。亦復如是。作比丘像。比丘尼像。優婆塞優婆夷像。亦復化作須陀洹身。乃至化作阿羅漢身及佛色身。魔王以此有漏之形。作無漏身。壊我正法。是魔波旬。爲壞正法。當作是言。佛在舍衞國祇陀精舍。聽諸比丘。受畜奴婢僕従。牛羊象馬。乃至銅鐵釜鍑。大小銅盤。所須之物。耕田種植。販賣市易。儲積穀米。如是衆事。佛大慈故。憐愍衆生。聽畜之。如是經律。悉是魔説云云

既云七百歳後。波旬漸起。故知。彼時比丘。漸貪畜八不淨物。作此妄説。即是魔説也。此等經中。明指年代。具説行事。不可更疑。且擧一文。餘皆準知。

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ 戒律講説へ戻る

2.訓読文

又『大集經』の二十八に云く。「若し国王有りて、我が法滅するを見、捨てて擁護せずんば、無量世に於て、施戒慧を修すも、悉皆滅失して、其国内に三種の不詳事を出し、乃至命終して大地獄に生ず」*1と。又同經の三十一に云く。「仏の言く。大王如法の比丘一人を守護して、無量の諸の悪比丘を護らざれ。我れ今唯二人の掌護を聴す。一には羅漢、八解脱を具す。二には須陀洹の人なり」*2云云

是の如きの制文、往往に数多[しゅた]なり。皆是正法の明の制文にして、像末教に非ず。然る所以[ゆえん]は、像季末法には、正法を行ぜすんば、法の毀すべき無し。何ぞ毀法と名けんや。戒の破すべき無し。誰か破戒と名けんや。又其時の大王には、行の護るべき無し。何に由りてか三災を出し及び施戒慧を失せんや。又像末の時には、證果の人無し。如何して彼に二聖を護って聽すことを明てんや。故に知ぬ。上の所説は、皆正法の世、持戒有るの時、破戒有るに約するが故なることを。

次に像法千年中、初の五百年には、持戒漸く減し、破戒漸く増す。戒行有りと雖、而も証果無し。

故に『涅槃』の七に云く。「迦葉菩薩、仏に白[もう]して言[もう]さく。世尊、仏の所説の如く、四種の魔有り。若は魔の所説及び仏の所説、我れ当に云何して分別ることを得べき。諸の衆生の魔行に隨遂する有らん。復仏の所説に隨順する者有らん。是の如き等の輩、復云何んが知らんや。仏迦葉に告げたまはく。我れ般涅槃して、七百歳の後、是の魔波旬漸く起りて、我が正法を沮壊せん。譬へば猟師の、身に法衣を服するが如し。魔王波旬も、亦復是の如し。比丘の像、比丘尼の像、優婆塞優婆夷の像と、亦復須陀洹の身を化作し、乃至阿羅漢の身及び仏の色身を化作せん。魔王此有漏の形を以て、無漏の身を作して、我正法を壊せん。是の魔波旬、正法を壊せんが爲に、当に是の言を作すべし。仏舍衛国の祇陀精舍に在りて、諸の比丘に、奴婢僕従、牛羊象馬、乃至銅鉄の釜鍑、大小の銅盤、所須の物を、受畜することを聴す。耕田種植し、販売市易して、穀米を儲積する。是の如きの衆事、仏大慈の故に、衆生を憐愍して、皆之を蓄ふことを聴す。是の如きの経律は、悉是魔の説なり」*3云云

既に七百歳の後、波旬漸く起ると云ふ。故に知ぬ。彼の時の比丘、漸く八不淨物を貪畜することを。此妄説を作す。即ち是魔説なり。此れ等の経中、明に年代を指して、具に行事を説く。更に疑ふべからず。且だ一文を挙ぐ。余は皆準知せよ。

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ 戒律講説へ戻る

3.現代語訳

また『大集経』の巻二十八にこのようにある。「もし国王が、私の教えが衰滅していくのを見ていながら、放置して保護・援助することがなければ、計り知れない未来世において、(その国王が)布施や持戒・智慧など(修行して善行を)行ったとしても、国内では三種の不祥事が起こり、死して後には大地獄に生まれ変わる」と。また『大集経』の巻三十一にはこうある。「仏陀が説かれるには、「大王は(私の教えのままに修行する)持戒の比丘がただ一人であってもこれを擁護・後援して、数え切れないほどのその他大勢の悪比丘を支えてはならない。私は今、ただ二種の(境地に至った)人のみが(大王から)支持・後援されることを許そう。一つは阿羅漢であり、彼は(四禅八定などと言われる)八段階の瞑想の境地すべてを獲得して悟りに至った者である。二つには(預流などとも言われる、小乗の第一段階の)聖者の境地に至った者である」などと。

この様な(破戒の比丘を罰して許さない)禁則は、(経典の中で)そこかしこ数多く説かれている。(しかし、)それらすべては正法の世における明確な禁則であって、像法・末法に通用する仏の教えではない。この様に言い得る根拠は、像法・末法の世では、正法が実行されることもなく、(仏陀の教えを誹謗しようにも)誹謗し得る「教え」すら存在しないのである。(そんなことであるから、末法の世に破戒・無戒の比丘があったとしても)どうしてそれを「毀法(仏法を誹謗し歪める者)」などと名付けることが出来ようか。(戒律を破ろうにも戒律自体が伝わってないのであるから)破り得る戒律もないのだ。(正法の世では破戒・無戒などと言われる比丘があったとしても)誰がこれを「破戒(の比丘)」などと呼ぶことが出来るのか。またその時代の大王は、守護すべき「教え」が無いのである。どのような行いによって国に三つの災いが起こり、あるいは大王の布施・持戒・智慧という善行を帳消しにしてしまうというのか。(像法・末法では、そのような悪果をもたらしうる原因すらも無いのだ。)また像法・末法の時代では、修行して悟りや聖者の境地に至る者など存在しない。どうやって(王は、『大集経』で説かれているような)二種の聖者を守護・後援しえるというのか。この様なことからこう結論できる。上に挙げた経典の所説は、すべて正法の世における、「持戒」ということが可能な時代、「破戒」ということが可能な時代についてのみ説かれたものであると。

次に像法の一千年間における、はじめの五百年間は、持戒の比丘が次第に減少し、破戒の比丘が次第に増加していく。戒の伝統とその授受、持戒の比丘があったとしても、悟りや聖者の境地に至ることは出来ないのだ。

よって『涅槃経』の巻七に説かれている。「迦葉菩薩が、釈尊に語って言うには、「世尊よ、あなたが説かれたように、「魔」というものには(五蘊魔[ごうんま]・煩悩魔・死魔・天魔という)四種あります。(その中でも)天魔の説く教えと仏陀の説かれた教えとを、私はいかにして見分ければ良いでしょうか。あらゆる生き物の中では、天魔の教えに従う者もあれば、仏陀の教えに従う者もあります。この様な者たちも、またどのように見分けられるのでしょう」。仏陀は迦葉にお答えになった。「私が死去して、七百年の後、(天魔たる)魔王波旬[パーピヤス]が次第に勢力を持つようになり、我が正法を妨げて破壊しようとするであろう。例えば(殺生を生業とする者たる)猟師が、袈裟を身にまとうようなものである。魔王波旬[パーピヤス]も、またその様なものである。比丘の姿、比丘尼の姿、優婆塞・優婆夷の姿、あるいは(小乗の聖者の階梯の第一段階)預流の聖者の姿をとって現れ、さらに阿羅漢の姿や仏陀の姿をもして現れるであろう。魔王は煩悩まみれの身でありながら、煩悩を離れた者たちの姿に化け、私の教えを滅ぼそうとするであろう。この天魔たる波旬[パーピヤスは]、私の教えを滅ぼさんとして、この様に語るであろう。「仏陀が舎衛国[サーヴァッティー]は祇園精舎[ぎおんしょうじゃ]に在ったとき、諸々の比丘に対し、奴隷や従僕、牛・羊・象・馬、および銅や鉄の鍋や釜、大小の銅盤など、所有することを許された。田を耕し苗を植えるなど農業に従事し、商品の売買など商業に従事し、(それによって得た利益で)米穀を蓄えること。このような諸々の行為や、仏陀は大いなる慈心をお持ちであるから、生きとし生けるものを憐れんで、すべて先に挙げた物品を蓄えることをも(比丘たちに)許された」と。この様なことを述べる経典や律典は、ことごとく天魔の所説である」と。

すでに(仏滅後)七百年の後、波旬[パーピヤス]の勢力が次第に旺盛になることが(経典に)説かれているのだ。よって以下のように知られるのだ。仏滅後の七百年以降の比丘は、次第に(先に挙げた)八種の律で禁じられている物を求め、所有するようになると。以上のような(律蔵で仏陀が禁じられたようなことをむしろ推奨する)妄説をなすのが、すなわち天魔の教えである。『涅槃経』などの経典の中には、(仏滅後七百年などと)明確にその年代を説いており、詳しく(その時代における比丘たちの)儀式や生活の様子を明らかにしている。(そのように数々の経典に明確にされているのであるから)これ以上疑いを持つべきではない。ここでは仮に根拠となる一文を挙げただけであるが、その他の経典の所説も『涅槃経』に同じであることを知れ。

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ 戒律講説へ戻る

4.語注

*1 「若し国王在りて」云々…『大集経』巻二十四,「大王。若有刹利婆羅門毘舍首陀。有大力勢。見我法滅捨不守護。其所得罪亦復如是。大王。若有國主。於無量世修施戒慧。見我法滅捨不擁護。如是所種無量善根悉皆滅失。其國當有三不祥事。一者穀貴。二者兵革。三者疫病。一切善神悉捨離之。其王教令人不隨從。常爲隣國之所侵嬈。暴火横起多惡風雨。暴水増長吹漂人民。内外親信咸共謀叛。其王不久當遇重病。壽終之後生地獄中」(大正13,P173上段)の引用であろう。しかし、巻二十八にはなく巻二十四にある。
また、経文に「若有刹利婆羅門毘舍首陀。有大力勢。見我法滅捨不守護」とあるのを、「若有國王。見我法滅。捨不擁護」と、主語を「国王」に改変して引用するのは、恣意的に過ぎる。→本文に戻る

*2 「仏の言く。大王如法の」云々…『大集経』巻三十一,「寧護如法比丘一人。不護無量諸惡比丘。是王捨身生淨佛土常値三寶。不久當得阿耨多羅三藐三菩提。大王。我今不聽一人受畜八不淨物。惟聽大衆得受畜用。大王。若有人能護持法者。當知是人乃是十方諸佛世尊大檀越也。護持大法。大王。僧物難掌。我今惟聽二人掌護。一者羅漢比丘具八解脱。二者須陀洹人」(大正13,P216上段)。
■羅漢[らかん]とは、阿羅漢[あらかん]の略。阿羅漢とは、サンスクリット「arhat(アルハト)」の音写語で、「尊敬を受けるにふさわしい人」の意。このことから漢訳語には、「応供[おうぐ]」との語がある。仏陀の異称でもあり、「如来の十号」という仏陀の十の異称の一つ。これ以上学ぶべきものが無いということから、「無学」との漢訳語もある。仏陀に等しく、苦海たる輪廻から解脱し、二度と生まれ変わることはない。もっとも、一般に大乗の立場からは、特に「小乗の理想的修行者・小乗の修行完成者」を指すことが多い。大乗からすれば、その悟りは未だ低い、不完全なモノと見なされる。小乗では、人は仏陀にはなり得ない(釈尊に等しい人物にはなれない)とするので、阿羅漢をもって最高の悟りに達した聖者とする。また、阿羅漢には在家信者の立場ではなり得ないともされ、出家者となって修行しなければならない。
■須陀洹[しゅだおん]とは、梵語「srota-āpanna[スロータ・アーパンナ]」の音写語で、「(聖者の)流れに入った者」の意とされる。漢訳語には、「預流[よる]」の語がある。小乗の修行者には、八つの階梯があるとされるが、その最初の段階。その八つとは、四沙門果である「須陀洹[しゅだおん]・斯陀今[しだごん]・阿那含[あなごん]・阿羅漢[あらかん]」、あるいは漢訳語で言うところの「預流[よる]・一来[いちらい]・不還[ふげん]・無学[むがっく]」の四つに、それぞれの境地への途上にある者の「向」と、すでに達した者の「果」とに分けたもの。これを四向四果[しこうしか]あるいは四双八輩[しそうはっぱい]などと言う。 →本文に戻る

*3 「迦葉菩薩、仏に白して言さく」云々…『涅槃経』巻七,「迦葉菩薩白佛言。世尊。如佛所説有四種魔。若魔所説及佛所説。我當云何而得分別。有諸衆生隨逐魔行。復有隨順佛所教者。如是等輩復云何知。佛告迦葉。我般涅槃七百歳後。是魔波旬漸當沮壞我之正法。譬如獵師身服法衣。魔王波旬亦復如是。作比丘像比丘尼像優婆塞像優婆夷像。亦復化作須陀洹身。乃至化作阿羅漢身及佛色身。魔王以此有漏之形作無漏身壞我正法。是魔波旬壞正法時。當作是言。菩薩昔於兜率天上沒來。在此迦毘羅城白淨王宮。依因父母愛欲和合生育是身。若言有人生於人中爲諸世間天人大衆所恭敬者。無有是處。又復説言。往昔苦行種種布施頭目髓腦國城妻子。是故今者得成佛道。以是因縁爲諸人天乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽之所恭敬。若有經律作是説者。當知悉是魔之所説」(大正12,P402下段-P403上段)。→本文に戻る

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ 戒律講説へ戻る

10ページ中6ページ目を表示
序説 ・凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  8 |  9 |  10 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。