現在の位置
10ページ中8ページ目を表示
序説 ・凡例 |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
原文 | 訓読文 |
現代語訳
次像季後。全是無戒。佛知時運。爲濟末俗。讚名字僧。爲世福田。
又大集五十二云。若後末世。於我法中。剃除鬚髪。身著袈裟名字比丘。若有檀越。信施供養。得無量阿僧祇福。
又賢愚經云。若有檀越。將末來世。法埀欲盡。正使比丘。畜妻挾子。四人以上名字僧衆。應當敬視。如舎利弗。大目連等。
又大集云。若打罵破戒無戒。身著袈裟罪。同出萬億佛身血。若有衆生。爲我法故。剃除鬚髪。被服袈裟。設不持戒。彼等悉已。爲涅槃印又所印也。是人猶能爲諸人天。示涅槃道。是人便已於三寶中。心生敬信。勝於一切九十五種外道。其人必能速入涅槃。勝於一切在家俗人。唯除在家得忍辱人。是故。破戒天人應當供養。
又大悲經云。佛告阿難。於後末世。法欲滅時。當有比丘比丘尼。於我法中。得出家已。手牽兒臂。而共遊行。從酒家至酒家。於我法中。作非梵行。彼等雖爲酒因縁。於此賢劫。一切皆當得般涅槃。斯賢劫中。當有千佛興出世。我爲第四。次後彌勒。當補我處。乃至最後。盧遮如來。如是次第。汝應當知。阿難。於我法中。但使性是沙門。汙沙門行。自稱沙門。形似沙門。當有被著袈裟者。於賢劫中。彌勒爲首。乃至盧遮如來。彼諸沙門。如是佛所。於無餘涅槃。次第得入涅槃。無有遺餘。何以故。如是一切沙門中。乃至一稱佛名。一生信者。所作功德。終不虚設。我以佛智。測知法界故云云。
維摩經云。佛十號中。聞初三福。佛若廣説。經劫不盡云云。
次に像季の後は、全く是無戒なり。佛時運を知りて、末俗を濟はんが爲に、名字の僧を讚して、世の福田と爲す。
又『大集』の五十二に云く、「若し後の末世に、我が法中に於て、鬚髪を剃除し、身に袈裟を著する名字の比丘を、若し檀越有りて、信施供養すれば、無量阿僧祇の福を得」*1と。
又『賢愚經』に云く、「若し檀越有りて、將末來世、法盡んと欲するに埀[なんなん]として、正使ひ比丘、妻を蓄へ子を挾むも、四人以上の名字の僧衆、當に敬視すること、舎利弗、大目連等の如くすべし」*2。
『維摩經』に云く、「佛の十號の中に、初の三を聞くの福、佛若し廣く説かば、劫を經るも盡きず」*5と云云。
次の像法の世が去った後には、まったく戒律の伝統は滅び去る。仏陀は(その教えが像法・末法と衰退・滅亡の道を辿るという、いかんともしがたい)時運を知られていたので、末法の人々を導かんとして、(末法の世における)形ばかり名ばかりの僧侶を賞賛され、世に福徳をもたらす聖者とされたのである。
また『大集経』の巻五十二にこうある。「もし後の末世において、私の教えに従う者で、ヒゲと髪を剃り、身に袈裟をまとうだけの形ばかり名ばかりの比丘に対して、もし後援する者があって、信心して布施すれば、はかりしれないほど大きな福を得るだろう」と。
また『賢愚経[けんぐきょう]』にはこうある。「もし仏教を信じ支援する者が、将来、仏陀の教えがまさに滅亡しようとしている時代、たとえ比丘が、妻をめとって子をもうけていたとしても、四人以上の(そのような)形ばかり名ばかりの僧侶たち(似非サンガ)を、尊敬して恭しく思うことは、(仏陀直々の高弟たる)舎利弗[サーリープッタ]尊者や、大目連[マハーモッガーラーナ]尊者を見るのに等しくあるべきだ」と。
また『大集経』にはこうある。「もし破戒・無戒の身であるにもかかわらず袈裟をまとって僧侶然とする者を打ち罵る罪は、万億の仏陀のお体を傷つけて流血させるに等しい。もし人あって、私の教えのために、ヒゲと髪を剃り、袈裟を身にまとったとしよう。(彼が)たとえ戒を受けて持つことがなくても、そのような者らは皆、涅槃を象徴して顕現するものである。この様な者はさらに諸々の人々や神々のために、涅槃へと至る道を示すのだ。この様な者は(仏陀・仏法・僧伽という)三宝に対して、心に畏敬・信仰の念を生じ、すべての九十五種の仏教外の思想・宗教(の思想家・宗教家)に勝る。この様な者は必ず速やかに至高の悟りを得て、あらゆる在家の俗人に勝るのだ。ただし在家信者で(あらゆる困苦・誹謗・中傷・迫害などに)忍び耐える徳を獲得した者には及ばない。このようなことから、破戒の比丘であっても神や人は尊敬して支援すべきである」と。
また『大悲経』にはこうある。「仏陀は阿難[アーナンダ]におっしゃられた。「私が滅度した後の末世において、私の教えが滅びようとしているとき、比丘や比丘尼は、私の教えを信奉する者として、出家したにもかかわらず、手に子供の腕をとって、一緒にそこかしこへと経巡り歩き、酒屋から酒屋へと渡り歩き、私の教えの信奉者でありながら、(性行為をなすなど)不浄な行いをなすことがあろう。(しかしながら)彼らに酒による過失・罪などがあったとしても、この現在の宇宙が存続する時間の中で、皆が完全なる悟りに得るに至るであろう。この現在の宇宙が存続する時間の間には、一千の仏陀が世に出るであろう。私(釈迦仏)は第四番目の仏陀である。次は弥勒[マイトリー]が、私の次の仏陀として世に出るであろう。そして最後に世に出るのは廬遮那[ヴァイローチャナ]如来である。そのような順序で次々と仏陀が世に現れるのだ。あなたは、このように知らなければならない。阿難よ、私の教えを信奉する者で、具足戒(二百五十戒)を受けて沙門(比丘)となった者でありながら、沙門としての行いをせず(比丘としての資格を失い)、しかしみずからを沙門と称する、外見は沙門のようにヒゲと髪を剃っており、袈裟をまとう者があるだろう。この現在の宇宙が存続する時間の中で、弥勒を上首とし、さらには廬遮那如来を上首として、形ばかり名ばかりの諸々の沙門は、次々に現れる仏陀が、その生涯を終えて滅度されるとき、次第に悟りを得て、一人として悟り残すことはない。その所以[ゆえん]は、形ばかり名ばかりの全ての沙門の中で、一度でも仏陀の御名を唱え、一度でも信仰心を生じさせた者の、その功徳は、決して虚しいモノとはならないからだ。(このように言うのは)私が仏陀としての智慧をもって、全世界を知り抜いているからである」と」と。
『維摩経[ゆいまぎょう]』にはこうある。「仏陀の(「如来・応供[おうぐ]・正遍知[しょうへんち]・明行足[みょうぎょうそく]・善逝[ぜんせい]・世間解[せけんげ]・無上士[むじょうし]・調御丈夫[ちょうごじょうぶ]・天人師[てんにんじ]・仏世尊[ぶつせそん]」という十の異称・敬称である)十号の中で、初めの三つを聞くことの功徳について、仏陀がもし詳細に説かれたとしたら、億万年以上の時を経ても語り尽くせないであろう」と。
*1 「若し後の末世に」云々…『大集経』巻五十五,「次五百年於我法中鬪諍言頌白法隱沒損減堅固。了知清淨士。從是以後於我法中。雖復剃除鬚髮身著袈裟。毀破禁戒行不如法假名比丘。如是破戒名字比丘。若有檀越捨施供養護持養育。我説是人猶得無量阿僧祇大福徳聚」(大正13,P363中段)。→本文に戻る
*2 「若し檀越有りて」云々…『賢愚経』巻十二,「若有檀越。於十六種具足別請。雖獲福報。亦未爲多。何謂十六。比丘比丘尼。各有八輩。不如僧中。漫請四人。所得功徳。福多於彼。十六分中。未及其一。將來末世。法垂欲盡。正使比丘。畜妻侠子。四人以上。名字衆僧。應當敬視如舍利弗目犍連等」(大正4,P434上段)の略抄。ここで「四人以上名字衆僧」と、わざわざ四人以上としているのは、サンガ(衆)が四人以上の比丘が集まることによってはじめて成立する事を受けてのことであろう。もっとも、集まるのが「名字衆僧」では、百人集まってもサンガとは言えないのが本来である。詳しくは「戒律講説-律とは-僧伽(サンガ)」を参照の事。
■檀越[だんおつ]とは、サンスクリット「dānapati[ダーナパティ]」の音写語で、「施主」の意。寺院や僧侶に布施をする人。音韻の関係(連声)で、「だんのつ」とも読む。→本文に戻る
*3 「若し破戒無戒の身に」云々…『大集経』巻五十四,「若有爲佛剃除鬚髮被服袈裟不受禁戒受已毀犯。其刹利王與作惱亂罵辱打縛者得幾許罪。佛言。大梵。我今爲汝且略説之。若有人於萬億佛所出其身血。於意云何。是人得罪寧爲多不。大梵王言。若人但出一佛身血得無間罪。尚多無量不可算數。墮於阿鼻大地獄中。何況具出萬億諸佛身血者也。終無有能廣説彼人罪業果報。唯除如來。佛言。大梵若有惱亂罵辱打縛爲我剃髮著袈裟片不受禁戒受而犯者。得罪多彼。何以故。如是爲我出家剃髮著袈裟片離不受戒或受毀犯。是人猶能爲諸天人示涅槃道。是人便已於三寳中心得敬信。勝於一切九十五道。其人必速能入涅槃。勝於一切在家俗人。唯除在家得忍辱者。是故天人應當供養」(大正13,P359中段)。→本文に戻る
*4 「佛阿難に告たまはく」云々…『大悲経』巻三,「阿難。我爲一切天人教師。憐愍一切諸衆生者於當來世法欲滅時。當有比丘比丘尼於我法中得出家已。手牽兒臂而共遊行。從酒家至酒家。於我法中作非梵行。彼等雖爲以酒因縁。於此賢劫一切皆當得般涅槃。阿難。何故名爲賢劫。阿難。此三千大千世界。劫欲成時盡爲一水。時淨居天。以天眼觀見此世界唯一大水。見有千枚諸妙蓮華。一一蓮華各有千葉。金色金光大明普照。香氣芬薫甚可愛樂。彼淨居天因見此已。心生歡喜踊躍無量而讃歎言。奇哉奇哉。希有希有。如此劫中當有千佛出興於世。以是因縁。逐名此劫號之爲賢。阿難。我滅度後此賢劫中。當有九百九十六佛出興於世。拘留孫如來爲首。我爲第四。次後彌勒當補我處。乃至最後盧遮如來。如是次第汝應當知。阿難於我法中但使性是沙門汚沙門行。自稱沙門形似沙門。當有被著袈裟衣者。於此賢劫彌勒爲首。乃至最後盧遮如來。彼諸沙門如是佛所。於無餘涅槃界次第當得入般涅槃。無有遺餘。何以故。阿難。如是一切諸沙門中。乃至一稱佛名一生信者。所作功徳終不虚設。阿難。我以佛智測知法界非不測知」(大正12,P958上段-中段)。→本文に戻る
*5 「佛の十號の中に」云々…支謙訳『仏説維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』のいずれにも該当する文はない。ただし窺基撰述とされている『西方要決科註』巻二(卍蔵経61,P109中段)に「故維摩經云。佛初三號。佛若廣説。阿難經劫不能領受」とほぼ同一の文がある。これを孫引きしたものであるか(最澄真撰として、この書が当時すでに日本にあったかは未考)。
そもそも、このあとで「此等諸經。皆指年代。將末來世名字比丘。爲世導師」などと主張しているが、この文はその論拠に全くなり得ないだろう。→本文に戻る
10ページ中8ページ目を表示
序説 ・凡例 |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
原文 | 訓読文 |
現代語訳
メインの本文はここまでです。
現在の位置
このページは以上です。