真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 戒とは何か

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1.戒とは

良い習慣

戒とは、「(良い)習慣」を原意とする、サンスクリットあるいはパーリ語「sīla(シーラ)」の漢訳語です。、経典の中では、時としてこれを音写した「尸羅(しら)」という言葉を使用することがあります。

戒は、「防非止悪(ぼうひしあく)」といって、日常の我々の行動を、非道や悪から遠ざけようとする、出家者である僧侶も在家信者も共に保つべき、日常での具体的な「心がけ」です。これは、まず自分や他者に苦しみをもたらす、なんらか悪しき行為を止めることによって、善なるあり方に近づく事を目的とするものです。

戒は、その人の立場に応じた何種類かが仏典に説かれています。戒とは、先に日常の心がけである、と述べましたが、それは日々につとめて守ってこそ初めて意味があるもので、基本的に一時期だけ、一日だけ守っても意味があるものではありません。

自発的にこそ

戒は、律とは異なって、あくまで自発的な決意に基づいた、日常における行為の原則・指標となる心がけです。よって、これを犯したからといって、何らかの罰則を他者から与えられるということは基本的にありません。戒は、自らの決心によって守っていこうと努力し、実際に守っていくことに意味があるものです。

よって、戒を守るにあたっては、「なぜ〜をしてはいけないのか」を、他者から「ダメなものはダメなのだ」、「お釈迦様が守れと言ったから守れ」などと言われて訳もわからず行うのではなく、本人が納得ずくのうえで行うのが一番です。

しかし、現実には最初はよくわからなくとも、戒を実際に守って生活している中で気付く、ということも多々あります。いずれにせよ、仏教に興味をもち、実践してみようと思ったならば、まず戒を自発的に受け、保つことが大切です。

三学−悟りへの階梯−

ところで、仏教ではその実践において、「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)」の三学(さんがく)ということが言われています。これはそれぞれ、「戒めを持って日々生活」した上で「冥想」し、「ものごとの真なるありかたを知る智慧」を修める、という実践に於ける段階をいうものです。

これを例えるならば、「戒とは大地」であり、「定とは大樹」であり、「慧とはその果実」です。大地がなければ樹が根付くことも、その実がなることもありえません。よって当然の事ながら、戒を保った生活をしていなければ、冥想において心の安定が得られず、よって智慧も得られません。戒というものが、仏教に実践においてもっとも重要であることは、このような実践段階が設けられていることから言えるのです。

時として、仏教の教学、哲学的側面だけを学んだ者が、それまでより優しく温厚にはなったものの、奔放で無責任になったり、懶惰・怠惰な生活を送るようになってしまうことがあります。また、無常だ縁起だ、空だのと、仏教の教理をさかんに口にして称賛するものの、その気性は瞬間湯沸かし器のごとく、なにか自分の気に入らないことがあれば烈火の如く怒り、ともすると周囲にさえ当たり散らすという、至極迷惑な、頭のネジがどこかへ飛んでしまったような人もあります。これは、その人に戒の実践が欠如しているために冥想も進まず、いや、そもそも戒を守ることも冥想などもせず、よって縁起や空などの理解が観念的浪漫的なものとなっている、という場合があるようです。

在家信者であれば戒を、出家修行者は戒と律とを実践し(その上で冥想し)ていなければ、いくら「私は仏教をこそ信仰し、熱心に修行しています」などといっても、それは世迷い言になってしまうほど、戒を実践することは、重要かつ根本的事項です。戒の実践なくしての冥想、戒の実践なくしての仏教理解などありえないのです。

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2.様々な戒

五戒−仏教徒の基本的戒−

さて、仏教徒としてもっとも基本的な戒は、「不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪淫(ふじゃいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゅ)」の「五戒(ごかい)」です。より具体的には、「いかなる生き物でも意図的に傷つけ、殺してはならない」、「他人から与えられていないものを、故意に奪ってはならない。我が物としてはならない」、「よこしまな男女関係を結んではならない。不倫、売買春してはならない」、「どのようなことであれ、真実でないことを語ってはならない」、「穀物酒であれ果実酒であれ、どのような酒であっても飲んではならない」という、五つの戒めです。

なぜ、これが基本的な戒かと言いますと、人が正式な仏教徒となるには、僧侶の前で、仏法僧の三宝を信じるという誓いの言葉である「帰依仏、帰依法、帰依僧」という三帰依文(さんきえもん)と、この五戒を、それぞれ三回繰り返し唱え、一生それを守るべく努力することを宣言しなければならないからです。もちろん、これは誰かから強制されてでなく、自らが進んでそうしたいという人こそが宣言すべきものです。

しかし、仏教徒となって戒を守ろうとする人の職業によっては、たとえば漁師・農家・娼婦・酒造家あるいは軍人など、どうやってもこの五戒のいずれかを守ることが不可能な場合があります。その職業に精を出せば出すほど、戒を破ることにつながる、などということも起こりうるのです。では、そのような場合、なんらかの制限があるかといえば、ありません。戒を守る守らないは、あくまで本人の問題です。

実際、釈尊が生きておられたインドにおいても、その熱心な信者の中には、当時大変に有名であったというアンバパーリーという名の高級娼婦がありました。彼女は娼婦ですから、邪淫戒を守ることは職業上不可能でしたが、それでも五戒を受け、熱心に釈尊の説法を聞き、さかんに供養を行っていたのです。彼女は最終的に出家して比丘尼となり、高い悟りを得ています。

もっとも、五戒を受けなくとも、三帰依するだけで仏教徒になることは可能と言えるのですが、仏教諸国では現実に五戒は仏教徒には必須のものとされていますので、ここではこのように説明しています。実際、最低でもこの五戒を可能な限り守っていこうとの意志がなければ、仏教などただの戯れ言になってしまうのです。

八斎戒・十善戒

さて、「五戒」以外にも、これに出家者的な要素を加えた、月のうち定められた6日間は守るべきとされる「八斎戒(はっさいかい)」と、身体的行為だけを戒める「五戒」に、精神的な行為への戒めを含めた「十善戒(じゅうぜんかい)」とがあります。

十善戒は、小乗・大乗ともに説いている戒ですが、大乗経典『摩訶般若波羅蜜多経(まかはんにゃはらみたきょう)』の注釈書『大智度論(だいちどろん)』では、「十善を総相戒とす(=十善はもろもろの戒すべてを内包するもの(根本)である)」と位置づけられ、また、密教経典『大日経』でも密教行者の保つべき重要な戒として説かれているなど、特に大乗で重要視されている戒です。

また、十善戒は、「十善業道(じゅうぜんごうどう)」とも言われ、「悪を為さずにいようとの十の善き心がけ」とやや消極的なものとしてでなく、「善を為さんとするための十の徳目(とくもく)」と、より積極的な意味を持ったものと捉えた方がよい場合もあります。悪を為さない、というだけでなく、ここで善と規定されている行為を実践し、また人に対して勧めるという、より積極的意味合いがあるのです。

菩薩戒

この他に、大乗を信仰し、「利他」という他者に対して絶対的な献身が要求される菩薩行を志す者には、大乗菩薩戒と呼称される戒が、数種類説かれています。

菩薩戒は、大乗の経典や論書の中で説かれているのですが、中国・朝鮮・日本に於いて最も代表的であったものとしては、『梵網経(ぼんもうきょう)』に説かれる「梵網十重四十八軽戒(ぼんもう じゅうじゅう しじゅうはちきょうかい)」を挙げることができます。

さらに大乗戒で有名なものを挙げるとすれば、法相唯識の重要な論書で、弥勒菩薩が説かれたという『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』で説かれる、「瑜伽四重四十三軽戒(ゆが しじゅう しじゅうさんきょうかい)」。または、戒と律とを統合して一つの体系として捉える「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」。『大日経』等の密教経論に依拠する密教行者の戒である、「三摩耶戒(さんまやかい)」を挙げることが出来ます。

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