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八斎戒は、在家信者に説かれる八つあるいは九つの戒で、五戒のうち不邪淫戒が不婬戒に変えられ、さらに三つまたは四つの戒めが加えられたものです。
これは、在家信者が、比丘達によって月二回行われる布薩[ふさつ]の日、あるいは月毎に六日ある六斎日[ろくさいじつ]と言われる日に、寺院などに赴いて出家者のもと、原則として一日一夜に限って守るよう説かれたもの、一日戒、布薩戒です。
さて、すでに”戒とは何か”で述べたように、戒とは「(良い)習慣」です。習慣ですから、基本的に一日だけ、一時期だけ守って意味があるものではありません。ところが、この八斎戒は、原則として一日だけ守る戒です。ではこれを守ることに意味がないかと言うと、そのようなことはありません。
在家信者達は、六斎日という月の決まった日に、日頃完全には守れきれぬかもしれぬ五戒を含めた八斎戒を完全に守ることによって、日々の生活を反省し、自分の心身の食に対する欲望と対峙。さらに出家者がこれを含めた多くの戒律を毎日守って修行していることを想い、ますますその尊敬の念を深めるのです。
理想を言えば、八斎戒を保とうとする在家信者は、六斎日は寺院などで僧侶の説法を聞き、瞑想するなどして静かな一日を送れると良いのでしょう。しかし、職務や雑務に追われる在家の身では、なかなかそうはいかないのが現状のようです。
さて、その八斎戒とは、以下の内容のものです。
| No. | 戒名 | 戒相(抄) |
|---|---|---|
| 1 | 不殺生戒 | いかなる生き物も、故意に殺傷しない。 |
| 2 | 不偸盗戒 | 故意に他者の所有物を盗まない。 |
| 3 | 不淫戒 | すべての性行為から離れる。 |
| 4 | 不妄語戒 | 偽りの言葉を語らない。 |
| 5 | 不飲酒戒 | アルコール類を飲まない。 |
| 6 | 不坐臥高広大床戒 | 立派な寝具や坐具でくつろがない。 |
| 7 | 不著香華瓔珞香油塗身戒 | 化粧や香水、宝飾品などで身を飾らない。 |
| 8 | 不作唱技楽故往観聴戒 | 音楽や演劇等を為さず、故意に鑑賞しない。 |
| 9 | 不過中食戒 | 正午から日の出まで、固形物を口にしない。 |
六番目の戒から八番目の戒まで、経論によって順序の違いがありますが、おおよそこのようなものです。戒の名前として、漢語のものを列挙しましたが、これも経論によって若干の語句の違いがあります。また、先に八つあるいは九つの戒などと言いましたが、これは七番目と八番目の戒を、一緒の戒として挙げるか、別のものとして挙げるかの数え方の違いです。今は一応、九つの項目として挙げています。
上に示したように、八斎戒は、ほとんど出家の戒と同じです。といっても沙弥[しゃみ]の戒ですが、これは、仏教の正式な出家修行者である比丘の前段階で、基本的に二十才未満の少年僧のことです。沙弥は、八斎戒より「金銀財宝などの財産を所有しない(不蓄金銀宝戒)」という項目が一つ多い、十戒を受け保ちます。このように、八斎戒とは出家戒に準じたものです。
(沙弥についての詳細は、”七衆-七つの仏教徒のありかた-”を参照のこと。)
在家者にとって、第六から八までの項目は、大した忍耐も苦労も必要なく守りえるものでしょうが、少々キツイと感じられるであろうものは、最後の「不過中食戒」でしょう。正午から翌日の日の出まで、どのような固形物であっても、これを口にすることは出来ません。ただし、ヨーグルト飲料(ラッシー)や牛乳など乳飲料を除く、ジュースの類ならば口にすることは出来ます。
八斎戒は、サンスクリットでAṣṭāṇga sīla[アシュターンガ シーラ]、パーリ語ではAṭṭaṅga sīla[アッタンガ シーラ]などと言いますが、これは訳すと八戒であり、この場合「斎」に該当する言葉などなく、文字通り八つの戒だということになります。
ところで、斎とは、「慎むこと」を意味する文字ですが、これを仏教では特に「正午を過ぎての食事を摂らないこと」を言い、さらに転じて「午前中にとる食事」のことを指すこともあります。ちなみに、日の出から正午までを時[じ]と言い、その間に摂る食事のことを時食[じじき]と言いますが、斎と同じ意味です。これに対して、正午過ぎの食事を非時食[ひじじき]と言います。
原則として托鉢で得た食べ物によってのみ日々の糧を得、そして小欲知足を旨とする仏教の出家者にとって、正午を過ぎて夜明けまでの間は修行者にとって食事をとるのに適切な時では無い、との仏陀の言葉に従い、今も出家者は夜明けから正午までの間で、そして基本的に一日一食のみで生活しなければなりません。といっても実際のところ、一日一食の生活は聞こえほど苦しいものではありません。普段から三食たっぷり食べている人にとっては、相当苦しいかも知れませんが。
さて、漢語仏典の中には八戒斎[はっかいさい]と記載されているものがありますが、この場合、上に挙げた一から八までの戒に、斎戒を加えた九つの戒として説いていることが知られます。いずれにせよ、八戒あるいは八斎戒、八戒斎と呼称しても、まったく同内容のことをいうものです。よって、これをどのように呼称しようが、これを八つまたは九つの戒と見ようが、違いはありません。
冒頭、八斎戒を「原則として一日一夜に限って守る」ものなどと言いましたが、これを一ヶ月間守る、あるいは半年、一年あるいは一生守ることも可能です。八斎戒は、六斎日に限ってだけ守ることに意味があるというものではないからです。それは、人の自由意思、誓願によってなされます。
そのように、六斎日に限らず長期間に渡って八斎戒を守ることを、長斎[ぢょうさい]と言います。六斎日の他に、長斎月[ぢょうさいがつ]あるいは神足月[じんそくがつ]と言われる月があり、これは一年のうち一月・五月・九月の三ヶ月のことで、これらの月に斎戒を保てば功徳福徳が増す、などとも言われます。
さて、過去の日本には、実際に長斎を行っていた人々がおり、斎戒衆[さいかいしゅ]などと呼ばれていました。主に寺院内で暮らす優婆塞[うばそく]、つまり在家信者にこれを行う者があったようです。
近年、と言っても百年ほど前のことですが、河口慧海[かわぐち えかい]師が、生命を賭しての一大冒険を経て赴いていたチベットから帰還され、思うところあって還俗されてからも長斎しています。師は、生涯に持戒生活を送られたようです。
六斎日とは、月のうち八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日の六日間を言います。これらの日は、仏陀の教えに従い、斎戒を持して功徳を積む日であることから、六斎日と言われます。もっとも、これらは現在の世界で主流となっている太陽暦ではなく太陰暦、いわゆる旧暦での話です。
さて、ではなぜこの六斎日に八斎戒を守るのでしょうか。
『大智度論[だいちどろん]』によれば、その昔、釈尊が誕生して悟りを開かれる前のインドでは、これらの日は悪鬼が人の生命を奪おうとする日であり、そのため病気など不吉な出来事が起こりやすい日とされていたようです。
そこで人々は、古の聖人の教えによって、これらの日を何事もなく過ごせるようにと、丸一日絶食していたといいます。しかし、仏陀がこの世に生まれ出、悟りを得られて後には、この丸一日絶食するだけだった習慣を、仏教徒にとっては「八戒を守り、午後を過ぎて食事を摂らない日」というものに改め、その目的を「悪鬼の災厄から逃れるため」に加えて「涅槃に向かわしめるため」としたのだといいます。また、釈尊は六斎日に八斎戒を守ることを、「過去の諸仏の道」であると言われたのだとも、伝えられています。
これからすると、六斎日に八斎戒を守るのは、インド古来の習慣を引き継ぎいで(さらに往古の諸仏の習慣を復興した)のことであることが知られます。
六斎日や以下にみる布薩[ふさつ]がそうであったように、仏陀釈尊はしばしば、当時のバラモン教や世間で行われていた習慣・儀礼を仏教に取り入れて換骨奪胎し、仏教として意義をもった行事に変えられています。
布薩[ふさつ]とは、「近くに」を意味する接頭辞upaと「住む」・「居る」を意味する√vasからなる、サンスクリットUposadha[ウポーサダ]あるいはPosadha[ポーサダ]、またはパーリ語でUposatha[ウポーサタ]の音写語です。
布薩は、仏教においては、毎月、新月と満月の日の二回行われる出家者の行事を指すものです。先に述べたように、仏教は、元来太陰暦を用いるのですが、陰暦の毎月一日と十五日は新月と満月の日となり、これが布薩の日にあたります。
布薩は、サンガの構成員たる正式の出家修行者比丘達が、半月間、戒律の規定に違反した行為がなかったかを、原則として一人の比丘が暗唱する、戒律の条項集とでもいうべき波羅提目叉[はらだいもくしゃ]を聞くことによって確認する、サンガの清浄性を保つための行事です。この儀式の内容から、布薩はまた説戒[せっかい]とも呼称されます。
世間には、この布薩をして、「僧侶がその罪を懺悔する法会である」などと説明する者がありますが、これは正確ではなく、むしろ全く誤っているとすら言えるものです。なぜならば、罪を犯し出罪していない比丘は、布薩に参加することが出来ないためです。懺悔によって許される程度の罪を犯した比丘は、布薩に参加する以前に、その罪を告白して出罪していなければなりません(故に、僧残など懺悔によって許されない重罪を犯した比丘は、布薩に参加できない)。布薩とは、あくまで「僧伽の清浄性を確認し、保つための儀式」であって「比丘が懺悔するための儀式」などではありません。
さて、まったくの余談ですが、戒律について「清浄」あるいは「浄」と言う場合、それはその人の心が清らかだといったような意味ではなく、戒律の規定に違反していないことを意味します。例えば、律蔵においては、金銭を手にすることを「不浄」と言ったりしますが、これは「金などけがわらしい」などといった意味ではなく、戒律の規定に違反している、ということを指します。しばしば誤解される点です。
さて、『四分律[しぶんりつ]』によれば、布薩は元来、インド教(バラモン教)の祭日で、新月と満月の日、信者たちが司祭(バラモン)のもとに、盛大に布施をしに行く日であったようです。それを、マガダ国という釈尊ご在世の当時、インドで最も強大な国の大王であったビンビサーラの勧めによって、仏陀釈尊は仏教に採り入れ、信者が出家者のもとに集まって布施をする日とされました。
それはやがて、在家者が出家者の説法を聞く日、出家して間もない者が戒律の条項を聞いて学ぶ日、有志の者が集まって冥想に励む日などと、その意義・内容が加わえられていき、最終的には上記のような出家者の戒律護持を確認する儀式の日となりました。
在家信者にとって、布薩の日は先にあげた六斎日と、満月の日十五日と新月の日三十日が重なります。在家信者は、この日に出家者のもとに集まって、その説法を聞き、八斎戒を守って清らかな日を過ごすにふさわしい日とされます。満月が夜空に高潔ですがすがしい光を放つように、在家信者もまた、この日を特に円満なる一日とすることを願い、実行するのです。
日本仏教では、戒律の伝統が滅び去り、正しい意味での布薩が行われ得なくなって久しいので論外です。また、六斎日に斎戒を持す在家信者などもおそらくは存在しません。まず八斎戒ということすら知る人は少ないでしょう。
しかし、これは南アジアや東南アジアでも若干ながら事情は同様で、八斎戒についての知識は持ち合わせてはいても、六斎日に八斎戒を守る人など、大勢としてはほとんどいません。また、本来の「六斎日」ではなく、慣例として斎日を四日に減らしています。
またそもそも、八斎戒はもとより出家者の戒律に含まれる「不作唱技楽故往観聴戒」つまり「音楽や演劇などを為さず、故意に鑑賞しない」ということを、僧侶自身が当たり前のように破っているのが、スリランカやタイ、カンボジア、ビルマなどでも普通に見られます。それを指摘したとしても、「時代は変わったのだ」「時代が違う」、「これは大した違反ではないから別に良いのだ」などと反論する者がほとんどといった状況です。
おそらくこれは世間のイメージと異なるでしょうが、ビルマは、上座部が盛んな国のうちで最も戒律を厳格に守っていると言って良い国で、実際彼らはそれを自負しています。誰の言が最初で、何故このようなことを言い出したのか知りませんが、巷間一部見られる「タイは律」などという評価は、全く事実と異なります。
そのタイ本国では、俗に「モーン・ウィナイ、タイ・プラスート、パマー・アピタム」と言われています。これは、「モン(ビルマ南部に多く居住する民族)はヴィナヤ(律)に長じ、タイはスッタ(経)、ビルマはアビダンマ(論)で特に勝れている」という意味で、タイの上座部では、自身達の経典の理解力に誇りを持っている証です。
もっとも、経典の理解力を誇っているのはスリランカも同様です。しかし、これも歴史的にたどれば故無きことではないでしょう。スリランカでは仏教の伝統が一度まったく断絶しために、タイから一度とビルマから二度逆輸入。現在、スリランカでの主流派・大多数派は、シャム・ニカーヤつまりタイ系のサンガであるためであるとも見られます。
ビルマは、パーリ語の発音の明瞭さや、サンスクリットの教養についてはスリランカに及びませんが、律ならびに冥想、阿毘達磨についての長い伝統と現状の盛んさは、上座部を信仰している他の国々より突出しています。対して上座部が信仰されてきた国で、最も高い誇りを抱いてともすると高踏的に過ぎると言えるスリランカでは、戒律と瞑想など仏教の実践ならびに阿毘達磨について、まったく論外です。
一昔前、ビルマでは、僧侶が映画を見ることは戒に抵触するかしないかで意見が分かれ、この問題を解決するためにわざわざサンガの大会議が開かれて、結局映画は娯楽であって戒に抵触するから見てはいけない、と公式に決定されたほどです。
一方、すでに述べたように、スリランカは戒律について厳格ではない、というよりむしろ全く無知な者、あるいは意図的にこれを破っている者が多く見られ、厳格に律を守っている、などと表現されるものからほど遠い状況にあります。各国の在家信者の戒律についての見識も、これに比例していると考えて良いでしょう。
さて、世俗の音楽や映画を鑑賞するなど娯楽に関わらないことは、仏教の出家者にとって基本中の基本の戒律の一つです。これを知らない比丘など、おそらく存在しないでしょう。
しかし、現実には僧坊の中にテレビやステレオなど設置し、映画や音楽を鑑賞する者がままあります。彼らが自称するところの「伝統的に厳しく護り伝えている戒律」でも基本的な、守ることになんら困難を伴わない戒を破って映画(東南アジア・南アジアの場合、そのほとんど全てが海賊版DVD)をさんざん見たあげく、その映画の批評を在家信者の前で得々とぶってみる者すらあります。
これでは堂々と在家信者に対して、八斎戒など説くことなど出来ないでしょう。もっとも、そのように不歌舞観聴戒を破れるのは、外国(に布教活動の一環として出ている身内の僧侶など)からの資金援助や裕福な檀家をもつ、「裕福な僧侶」にのみ見られることです。貧しい地方の田舎僧侶の場合は、「したくてたまらないけれど、金がないから出来ない」といった状況です。
ただし、南アジアや東南アジアでは、僧侶よりも在家信者の方がよほど熱心で、六斎日に八斎戒を守ることは必ずしもなくとも、特に満月の日、今も多くの信徒(主に女性)が寺院に足を運び、僧侶の法話を聞いたり、仏像や仏塔に対して祈りを捧げたりしている場面を見ることが出来ます。
沙門 覺應 (horakuji@live.jp)
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