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切に末世人師(まっせにんじ)の行う所に傚(なら)うことなかれ。すべからく淳粋(じゅんすい)の醍醐(だいご)を飲むべし。雑水(ぞうすい)の腐乳(ふにゅう)をすすることなかれ。
[意訳]
世情が乱れ、仏の教えが正しく行われていない世の中にあって、根拠なく、いい加減でデタラメなことを説き、行っている人を真似ることがあってはならない。ぜひとも、純粋な醍醐(だいご)のような、混じりけのない仏の教えをこそ行うべきである。 水が雑じって腐った牛乳の如き、仏陀が亡くなって時代を経るうちに様々な人の恣意的な解釈や、仏の教え自体を変質させてしまうような慣習が混じり込んだものを、これこそ真の仏の教えだ、などとして信じ行ってはならない。
『正法律興復大和上光尊者伝』(『慈雲尊者全集』首巻,P47)
上の言葉は、慈雲尊者が正法律を宣揚されて以降、終生実行し、また弟子達に教誡されていた言葉であったと、慈雲尊者の伝記『正法律興律大和上光尊者伝』に伝えられています。
真言宗の槙尾明忍(みょうにん)律師らによって、本邦史上二度目となる戒律復興運動がなされたのは、豊臣秀吉による天下統一がなされて間もなくの慶長元年。この運動は、江戸期に入って途絶えることなく、真言宗や真言律宗だけではなく、天台宗や浄土宗、日蓮宗の一部など、諸宗にも広がっていました。それら諸宗で戒律復興を唱えて実践した人には、例えば京都の深草元政(ふかくさげんせい)上人や久修園院(くしゅおんいん)の宗覚(しゅうかく)律師、江戸は上野の霊雲寺にあった覚彦浄厳(かくげんじょうごん)など、優れた人材が少なくありません。
しかし、それまでほぼ戒律など完全に無視していたと言ってよい日本仏教の各宗派に、「戒律復興運動が広がった」などと言っても、ともするとそれは戒律本来の意義・目的から離れたものとなっていたようです。律を守ることを、自分達が他宗や他者よりも優れたものだとするための根拠にして慢心を増長。他者を排撃し、派閥主義をより逞しくするなど、およそ本末転倒も甚だしいものとなっていた側面が強くあったのです。
もっとも、日本仏教界の大勢としては、それまで通りにかわらず破廉恥な醜態をさらしています。江戸時代までの日本では、戒や律に著しく違犯する僧侶は世間一般の風紀をも乱すとして、これを厳しく処罰する法律がありました。しかし、僧侶の女犯・衆道(男色)・飲酒など、いくら寺社奉行などが取り締まって罰したとしても、イタチごっこで後を絶たず、幕府は、維新を迎えるその最後まで、僧尼の取り締まりに手を焼いていた程です。現在の日本仏教界も、その内実は一般の方が想像だにしないほどヒドい有り様ですが、一昔前の江戸期も、今とは環境はかなり違うものの、その状況は同じくひどいものであったのです。
また、「宗論は どちらが勝っても 釈迦の恥」といった江戸川柳が伝わっていますが、そのように世間から揶揄されるほど、諸宗派の間で、非建設的極まりない不毛な論争を繰り返しています。幕府は、これも社会の混乱を招くとして宗論禁止の沙汰を出していますが、陰では誹謗中傷合戦は変わらず行われていたようです。
現在ときとして、「江戸期の仏教は、寺請制度(檀家制度)や諸宗法度など、幕府からの一方的な規制によって管理された、閉塞観漂う非常に窮屈なものであった」などといった説明をする人があるようです。しかし、そこでは「何故幕府がそのような規制を布いたか」といった視点がスッポリ抜けています。幕府もそうせざるを得ないような状況を、寺院・僧尼の破廉恥によって造っていた面が大いにあるのです。
さて、慈雲尊者が活躍された江戸中期当時の日本仏教界の情勢は、およそこのような有り様でした。尊者は、法楽寺で出家して間もなく、野中寺(やちゅうじ)という厳格な律院に入って修行を進めます。そしてある日、『四分律(しぶんりつ)』という律蔵を読むうちに、単なる知識として詰め込むような仏教の学び方、現実から乖離した観念的な仏教の学び方の誤りに、はたとして気づいたのでした。
これ以降、尊者は、実利的な仏教の実践に励み出します。冥想に打ち込んだのです。最初は密教の冥想「阿字観(あじかん)」に励むもこれに満足できず、与えられた法楽寺住職の地位を放りだして、信州は正安寺(しょうあんじ)という禅寺まで禅を学びに行きます。3年ほど冥想に打ち込んだその結果、尊者は自身でも得心のいく、ある程度の境地に達したようです。しかし、尊者は、世間は前述した様な有り様であり、いくら法を説いたとて無駄で、同調する者もないだろうと、独り山などに隠棲して余生を過ごそうと考えるにいたります。
ところが、信州から帰ってきたそんな尊者に対して、弟弟子の愚黙親証(ぐもくしんしょう)は、尊者が得た境地やその知見を教授して欲しいと、熱心に要請します。愚黙親証は、もし尊者に教える気がない、教えないなどと言うのなら、尊者には菩提心(ぼだいしん)など無いことになる、つまりは尊者が得たという境地など嘘っぱちだ、などと率直に批判を加えます。これに心動かされた尊者は、期限付きながら、後進の弟子達を教授指導することにするのでした。そして、尊者達が長栄寺に入ってしばらくした後、『根本僧制』という書を著し、「正法律(しょうぼうりつ)」という、いわば「釈尊に帰らん」との思想を宣揚するに到るのです。
尊者はその後、自身は律を厳格に守って冥想に励みつつ、経典やサンスクリットの研究に没頭。教えを乞いに来訪する庶民に対しては、わかりやすく法を説いて戒を授け、常に釈尊在世当時の仏教に倣わんとした生涯を送っています。
さて、ここで尊者が言った「純粋の醍醐」とは何か、が問題となるでしょう。結論から申しますと、それは、仏教には「八万四千の法門」と形容されるほど数多くの教えがありますが、それが説かれているすべての「仏典そのもの」。つまり、「仏陀の言葉として伝えられてきた原典」を指すものです。
しかしながら、仏教には、小乗と大乗という、立場が異なる二つの教えが存在します。そして、仏教誕生の地インドにおいて、小乗は「上座部(じょうざぶ)」や「説一切有部(せついっさいうぶ)」、「経量部(きょうりょうぶ)」など十八の部派にわかれ、大乗は大きく分けて「中観(ちゅうがん)」と「唯識(ゆいしき)」さらには「密教(みっきょう)」と、三つの異なる学派や実践法の流れが形成されました。
しかし、慈雲尊者も「仏在世に宗派なし」と主張されているように、これは小乗・大乗問わずに言えることですが、それらはいずれにしろいわゆる「派」としては、仏陀が亡くなってから相当の時代を経て次第に形成されたものです。それぞれの派は、自分達が伝え、あるいはもっとも重視する仏典に対してさまざまに解釈を施し、教学を形づくって自派の正統を主張して譲りませんが、どれも仏陀が生きておられた時からあったものではありません。
もっとも、釈尊が御在世だった当時、仏教教団が思想的に「一枚岩」であったわけでありません。たとえば、大迦葉(マハーカッサパ)尊者と阿難(アーナンダ)尊者との間には確執があったことが、仏典の随所で散見出来ます。また、その他の弟子達においても、知恵ある者は知恵ある者同士で、厳しい修行に暮れる者はその者同士で寄り集まるなど、「派」ではありませんが、それなりのグループが出来ていたことも、仏典の随所から知ることが出来ます。
仏陀の教説は、その死後すぐ弟子達によって、教えの集成である「経蔵」と僧侶の法律の集成たる「律蔵」、さらに仏陀の教えの注釈の集成「論蔵」との、いわゆる「三蔵(さんぞう)」にまとめられました。しかし、仏滅後100年ほどすると、弟子達の間で律についての異見が北インドの僧団で起こり、ついに二つの派に別れてしまいます。これを「根本分裂」と言い、この経緯については律蔵が詳しく伝えています。そして、それから時代を経るうちに、さらに分裂に分裂を重ねていきます。分裂するときには、仏滅直後にまとめられた三蔵を、部派独自の三蔵として編纂し直し、それぞれ用いていたようです。
やがて、インドでは小乗に十八部派が数えられるようになり、大乗の諸派はそのいずれかの部派の中で行われるようになっていきます。七〜八世紀頃のインドにおいて、小乗の部派が独立して存在することはあったものの、大乗は「純粋に大乗のみを行う独立した派」としては存在せず、いずれかの部派の中で共存していたことが、インドに留学した玄奘(げんじょう)や義浄(ぎじょう)など、中国僧達の報告によって知られています。
ちなみに、現在は小乗の十八部派の中で「派」として独立して残っているのは、「分別説部(ふんべつせつぶ)」とも言われる「上座部(じょうざぶ)」のみで、主として東南アジアにて行われています。インドで最も大きな勢力を誇っていた「説一切有部」は、13世紀にインドで仏教が滅亡したと同時に滅んだため、独立した派としては残っていません。しかし、その学問の伝統や思想、規律は、大乗にとって必要不可欠の基礎として組み込まれ、主にチベットにて今もさかんに学習されています。
注):「小乗」という言葉は、大乗の経典に頻繁に出てくる仏語の一つではありますが、現在は大乗からの一方的な蔑称であるとして、用いるのは不適切とされています。よって、普段使用する呼称としては、「小乗」ではなく「部派仏教」という呼称を用いた方が良いでしょう。
尊者が一番問題としたのは、そのような様々な派が存在したこと自体ではなく、インドにおいてもこれだけの派に別れていたのものが、言葉や歴史、文化のまったく異なる中国・日本へと体系立てられずに無秩序に伝来したことによって、誤訳や誤解、原意から逸脱した拡大解釈などを生じ、さらに地方独自の慣習や価値観を混入させてしまっていたことでした。また、その上さらに様々な宗派が立てられ、結果として原典から遠く離れたところで、不毛な論争が繰り広げられていたことです。尊者はこの様な事態を、「雑水の腐乳」としているのです。尊者が学んだ禅について言えば、尊者が認めたのは『臨済録』だけで、それ以外の禅書は「雑水の乳」としています。
話が込み入り過ぎましたが、ようするに、尊者は行きすぎた解釈や派閥意識を廃し、原点たる仏典そのものに帰ってそのそれぞれ認め、あくまで仏典に沿いながら、自分に適した教えを選び取ることを主張されたのでした。この様な比較はするべきではありませんが、あえて言うならば、16世紀のドイツにてルターが唱えた、「聖書に帰れ」というキリスト教改革と似たような主張といえるでしょう。
ところで、慈雲尊者が活動されていた江戸中期当時、「大乗は仏陀が説いた教えではない。それは、時代を経ると共に様々な思想が混入し、それまであった思想を改めるなどして、次第に形成されていったもの、「加上(かじょう)」されて出来たものである。もっとも純粋に仏陀の教えを伝えているのは、『阿含経(あごんきょう)』くらいであろう」といった見解が立てられていました。これは、富永仲基(とみながなかもと)という不世出の英才による主張で、これを「加上説(かじょうせつ)」といい、結論としては「大乗非仏説」を唱えるもので、『出定後語(しゅつじょうこうご)』という書で主張されています。
現在、近代の西洋に端を発した文献学としての仏教学において、まさに富永仲基が主張したとおり、大乗は仏陀の教えなどでなく、後代に様々な思想が混入して形成されたものであることは定説となっています。仏教学からすると、「純粋な仏陀の教え」を今に伝えるものは、パーリ語で伝えられてきたいわゆるパーリ三蔵か漢語で伝えられた『阿含経』です。しかしながら、文献学的に厳密に言えば、それらですら後代の挿入や削除など改変を免れなかったものであろうから、ある程度まで推測は出来るものの、「これこそがまさに仏陀の言葉そのものである」と断定出来るものは無い、とされています。
ちなみに現在の大学や研究機関などで行われている仏教学は、イギリスを主とする欧州各国が、「欧州にはるかに劣ったものとしてのアジア(インドならびに東南アジア)」を植民地支配するため、19世紀より国を挙げて創始されたインド学の一部だったものです。富永仲基は、それに先駆けることおよそ2世紀も前に、一個人の力でしかも極めて短期間に、近代の文献学とほぼ同様の手法によって、同様の結論に達していたのですから、まさに卓抜した人であったと言えるでしょう。
ところで、富永仲基自身は、この見解を立てることによって仏教に対して非難や批判をしたわけではなく、すでに儒学に対して立てていた「加上説」という見解を仏教にも適用して、実際にいくつかの経典にあたってそれを確認し、主張したに過ぎなかったようです。しかし、やや時代が下った後になって彼の主張を知った国学者や儒学者達は、ここぞとばかりに排仏の材料として用いています。例えば国学者本居宣長(もとおりのりなが)の弟子平田篤胤(ひらたあつたね)などは、『出定笑語(しゅつじょうしょうご)』というパロディー本を著して仏教批判を展開しています。もっとも、これは些か下品な、率直に言って知的水準の低いものであり、富永仲基のそれには遠く及ばないものと言えます。
また、富永仲基の死後、その主張を知った日本の仏教者達は、ヒステリーな反応を示し、まったく不合理な、感情的な反論を展開しています。もっとも、それも一時のことであったようで、明治期に入ると西洋の仏教学の成果としての「大乗非仏説」が知られ、日本人からもこれを是とする仏教学者が現れると、これがまた物議をかもすことになります。結果として日本仏教界はこれを「公式には」黙殺し、しかしながら個人としては「非仏説でも仏教」という不合理な主張をするようになっていきます。
さて、富永仲基が『出定後語』を著したのは30才の事ですが、惜しくもこの稀代の天才はその後しばらくして、32才という若さで亡くなっています。尊者が、富永仲基の主張を知っていたかどうかは判りませんが、尊者が1718年の大阪生まれなのに対し、富永は1715年のやはり大阪生まれで、同年代・同地方の人ですから、多少なりともその可能性は充分あると言えるでしょう。
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