真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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1.十善戒

原文

弟子某甲 (でしむこう)
盡未来際 (じんみらいさい)
不殺生 (ふせっしょう)
不偸盗 (ふちゅうとう)
不邪淫 (ふじゃいん)
不妄語 (ふもうご)
不綺語 (ふきご)
不両舌 (ふりょうぜつ)
不悪口 (ふあっく)
不慳貪 (ふけんどん)
不瞋恚 (ふしんに)
不邪見 (ふじゃけん)

読み下し文

弟子某甲(むこう)は、
未来際(みらいさい)が盡(つ)きるまで、
殺生(せっしょう)せず、
偸盗(ちゅうとう)せず、
邪淫(じゃいん)せず、
妄語(もうご)せず、
綺語(きご)せず、
両舌(りょうぜつ)せず、
悪口(あっく)せず、
慳貪(けんどん)せず、
瞋恚(しんに)せず、
邪見(じゃけん)せざらん。

現代語訳

仏陀の弟子たる私は、
未来の果てが尽きるまで、
生きとし生けるものを(故意に)傷つけず殺さず、
与えられていないものを自分のものにせず、
よこしまな男女関係を持たず、
(故意に)でたらめを言わず、
無益なおしゃべりをせず、
悪口を言わず、
他人同士を仲違いさせるようなことを言わず、
物惜しみせず無暗にほしがらず、
どんなときも怒らず、
よこしまなものの見方や考えをもたない。
(という十の善なる戒めを保つ。)

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2.解説

十善戒とは

「十善戒(じゅうぜんかい)」とは、「十の項目よりなる善なる戒め」です。

「善」とありますが、仏教でいう「善」は、「結果として自らに安楽をもたらす行為」を意味します。「戒」というのは、みずからが決心して自発的に行うものです。

「戒律」という言葉がありますが、「戒」と「律」とは、同じ意味ではありません。「戒」とは、先ほど言ったように、みずからの決心にもとづいて実行されるべき行為規範で、これを破ったからと言って誰かから罰を下されるなどと言うことはありません。しかし、「律」は罰則を伴った厳密な規則で、僧侶に限って説かれたものであり、在家信者に関係のないものです。

十善戒は、「戒」ですので、みずからの意志で行わなければなりません。誰かに言われて、イヤイヤやるようなものではないのです。よって、このような「戒」をすべて完全に守れ、などと他者から強制されることはありません。

三学

さて、「戒」は仏教において、もっとも重要なものの一つです。仏教では、その修行に関して「三学(さんがく)」ということを説きます。

それは、仏教の修行者はすべからく「戒を保った生活」をした上で「冥想」し、「モノの真実を見通す智慧」を磨いていかなければならない、という段階があることを示したものです。これを伝統的に「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)」の三学といいます。

これは裏を返せば、戒を保った生活をしなければ、冥想は成就できない。よって悟りに近づくことも出来ない、と言うことを意味します。

戒は大地

これを以下のように例えることが出来ます。戒は大地であり、冥想は樹木。智慧はその果実です。大地がなければ、いかなる樹木が生えることも根付くこともなく、よって樹木が果実を実らすことは決してないように、戒を保たなければ、冥想を正しく実行できず、よって悟りを得ることなど決してないのです。

もし、仏教の一派と自称している宗派や団体があり、その彼らが「我が宗あるいは我が団体は、戒などというかたくるしいモノを護る必要なありません。信じることこそがまず第一です。いや、信じぬくことが戒です」などと言っていたとしたら、この時点で彼らが説いているのは仏教ではないと、断言出来ます。

それほど、戒を保つこと、十全に守ることは出来なくとも守るよう日々努力することは、仏教において第一に重要なことです。ただ、以上のように言うとあまりに仰々しい、それこそカタクルシイもののように捉えられてしまうかも知れません。そこで、戒をこのように捉えても良いでしょう。「戒を破るのは、自分や他者にとって良からぬことにしかならないから、やめときなさい。しかし、戒を守った生活を送れば、自分や他者に安楽をもたらし、果てには悟りの原因となるから、守ったが良い」と。

つづく「弟子某甲」・「盡未来際」は、「三帰・三竟」の項で、説明したとおりです。

身三口四意三

十善戒は、人間の行いを、「身体」と「言葉」と「心」の三種類に分類し、それら三種類の行いすべてにわたるものです。

身体の戒めは、「不殺生」・「不偸盗」・「不邪淫」の三つ。言葉の戒めは、「不妄語」・「不綺語」・「不悪口」・「不両舌」の四つ。心の戒めは、「不慳貪」・「不瞋恚」・「不邪見」の三つです。この様に、人間の行為を三種分類し、それぞれを戒めたのを、伝統的に「身三口四意三(しんさんくしいさん)」と言うことがあります。

殺生戒

さて、先に述べたように、以下の「不殺生」・「不偸盗」・「不邪淫」の三つは、人間の行為のうち、身体について戒めたものです。

「不殺生」とは、「生きとし生けるものすべてを、それがどのようなものであろうと、命をもつものである限り、故意に傷つけたり、殺したりしない」という戒めです。程度の差こそあれ、私達は、私達が命をもつものである限り、自分以外の命を奪って、自らの命をつなぐことから逃れることは出来ません。

しかしながら、どのような生き物であっても、自分の命こそ何より最(もっと)も大事なものであり、その命が損なわれ、奪われることを恐れます。誰も始めから自らの死を望みはしません。自分の命が大事でかけがえがないように、他者の命も大事でかけがいがないのです。

姿形の大小好醜などに関係なく、それがどのようなものであれ、生命そのものに敬意を持ち、いたずらに殺したり、傷つけたりしないように、日頃よく気をつけなければなりません。

偸盗戒

「不偸盗」は、本来からすると「ふとうとう」(または「ふつとう」)と読まれるべきですが、「ふちゅうとう」と慣用読みされます。「偸」も「盗」も同じく、「ぬすむ」との意を表す字です。意味は、「どのようなものであれ、いまだ自分に与えられていないものを、故意に自分のものにしない」です。

卑近な例になりますが、商店などで、手違いによって自分が釣り銭を多く受け取ったことを気づきながら、それを「しめしめ、儲けた」等と思って自分の財布に入れてしまうのも、不当に手に入れたことになり、「盗」になってしまうので、日頃からの注意が必要です。

邪淫戒

「不邪淫」とは、「故意に、よこしまな男女関係を持たない」との意味で、既婚者であれば「不倫してはならない」という戒めになります。具体的にいえば「配偶者同士など男女間の信頼等を裏切り、欺いて、他の男女と関係を持ってはならない」。または、「ただ肉体的快楽を満たすためだけの男女関係を持ってはならない」・「売買春してはならない」となります。

最初はたんなる男女関係のこじれであっても、それが結果として殺人・傷害などの重犯罪を引き起こしたり、そこまでゆかなくとも相手、周囲に偽りの言葉を重ねたり、いたずらに誹謗中傷しあうなど、いくつもの悪を重ねてゆき続けることは、よく我々も耳にし、知るところでもあるでしょう。男女の道は、時代によって変化するものかもしれませんが、よくよく考えて行動しなければなりません。

妄語戒

これより以下の四つ、「不妄語」・「不綺語」・「不悪口」・「不両舌」は、人間の行為のうち、言葉について戒めたものです。

「不妄語」は、「故意に、真実でない言葉、でたらめを言わない」、つまり「嘘をつかない」という戒めです。中でも、最もしてはならない「妄語」があります。それは、自分がいまだ悟ってもいないのに悟った、あるいは、いまだ到達してもいない高い境地に自分が到達したなどと言うことで、これは「大妄語」といわれます。これをすると、僧侶であれば僧団から永久追放、というほどの重罪になります。

また、しばしば僧俗問わず、やたらと神秘的なこと、自分の経験した不思議な出来事などを、周りに吹聴して回る者がありますが、まずそのようなことをしても全く意味のない、無駄なことですし、僧侶でなければ罰せられることはありませんが「大妄語」になり、また「綺語」にもなりますので、厳に戒めなければなりません。

実際、歴史的にも行学兼備(ぎょうがくけんび)・持戒清浄(じかいしょうじょう)の偉大な高僧達の中で、「私は悟った」「私は仏陀になった」などと口にしたり、無暗に不可思議なことを周囲に吹聴)して回ったりした方など、それを戒めた方こそあれ、ほとんどいないのです。

綺語戒

「不綺語」の「綺」という漢字には、「うつくしい」と言う意味があります。しかし、「不綺語」は、「きれい事を言わない」という意味ではありません。これは「意味のない、無駄なおしゃべりをしない」という戒めです。

より具体的に言えば、「人のご機嫌をとって気に入られようとお世辞を言わない。いたずらに人の心を惑わすような言葉を語ったりしない」ということです。仏教者は本来、法を説くとき以外は、寡黙なのです。

悪口戒

「不悪口」は、説明するまでもなく、「他人の悪口を言わない」という戒めです。「他人の不徳をいたずらに取り上げ、悪意をもってなじり、そしり、けなしてはならない」ということです。人はなぜ他人の悪口を言うのでしょうか。驕(おご)りから、恨みから、妬(ねた)みから、怒りから、焦りからなど色々と挙げることが出来ます。

しかし、なんにせよ、それは決して良い心から生まれてくるものではありません。悪い心から生まれた、悪い行為は、他を苦しめるだけでなく、自らにも苦しみの結果をもたらします。人の悪口を言うと心がスッとする、と思われる方は多いようで、実際、日々積極的にこれを実践されている方も多くあるようです。

なるほど、他人の悪口を言うことによって、一時的には気が晴れるかもしれません。しかし、これは天に向かって唾をはきつけるようなもので、いずれその唾(悪口・悪意)は自分に落ちてくることになるのです。

両舌戒

「不両舌」とは、「故意に、他人の仲違(なかたが)いをさせるようなことを言わない」という戒めです。「悪意にもとづいて、一方で耳にしたことを、他方に告げ口し、その双方の関係に亀裂を生じさせてはならない」ということです。

誰かに悪意を抱いたとき、その誰かを積極的に不幸)にしようと、行動される方もいるようです。しかし、これは大変あさましく、卑しい行為です。もし、誰かに悪意を抱いたとしたら、遠ざかって近づかず、それ以上その悪意を大きくしないように努めるべきです。

遠ざかることが出来ない場合も、やはり、悪意が大きくなってしまうのを出来る限り防ぐべきです。積極的にその誰かを不幸にしようと画策すればするほど、悪意は増大してしまいます。そして、いずれは自分自身も、その悪意を受けることになるでしょう。

「口は災いの元」とは、巷間(こうかん)しばしば言われるところですが、現実にそれを教訓として生きられている方は少ないようです。むしろ「人の不幸は蜜の味」。他人の不幸、欠点、醜聞を興味津々に聞き、さらにそれを周囲に吹聴(ふいちょう)してまわる方は大変に多く、世間にはそれを生業(なりわい)にした実に卑しい職業すらあるようです。しかし、悪い行いのその果に待っているのは、ただ苦しみでしかないことを忘れてはなりません。

慳貪戒

以下、「不慳貪(ふけんどん)」「不瞋恚(ふしんに)」「不邪見(ふじゃけん)」の三つは、人間の行為のうち、心(こころ)について戒(いまし)めたものです。

「不慳貪(ふけんどん)」の「慳」の字は、「心を堅(かた)くする」と書きますが、これは「物惜(ものお)しみ」という意味であります。「貪」は「むさぼる」などの意味を持つ字です。つまり、「不慳貪」とは、「物惜しみしてはならない。飽くことを知らずに物をほしがってはならない」という戒めになります。

「自分が他に与えるだけの余裕があっても、それを惜しんで与えず、自分にないものをいたずらに欲しがり求め、また手に入れたとしても決して満足せず、際限なく求めてやまない」という、人の尽きることのない、不毛な欲望を戒めているのです。自分が何か求めて、それが得られなければ、それは苦しみとなります。そして、その求めることが大きければ大きいほど、それが得られないときの苦しみは大きく、また得られたとしても、それを失うときの苦しみは多大なことでしょう。

仏教では、人の欲望が本質的にむなしく、不条理であることを見つめたうえで、「少欲知足(しょうよくちそく)」を説きます。これは、「求めるところは少なく、どんなものでも、そのとき得たもので足ることを知る」ことを尊ぶのです。

瞋恚戒

「不瞋恚」は、本来「ふしんい」と振り仮名をつけられるべきで、口に読む場合に「ふしんに」と読み方を変化します。これは日本語にしばしば見られる読み癖なのですが、「ん」のあとに「い」という音が来ると、その「い」を「に」という音に変えるという習慣があるためです。「観音」を「かんおん」と読まずに、「かんのん」と読むのも同じような理由によってです。

さて、「不瞋恚」の「瞋」と「恚」は共に、「怒る」という意味の漢字です。よって、これは「どんなときであれ、怒ってはならない」という戒めです。「仏の顔も三度まで」という諺(ことわざ)があります。これを「たとえ仏様であっても、四度同じ過ちを繰り返した者に対しては、怒りをあらわにする」といった意味だと世間では誤解され、「場合によっては怒っても良い」という言葉として用いられているようです。

しかし、それではこの「不瞋恚」と矛盾してしまいます。もちろん、これは「場合によっては怒っても良い」などと、怒りを容認する言葉などではないのです。怒りは、自分こそが全く正しく、他者が間違っていると考えることから起こり、また物事が自分の思い通りにならない時に沸き起こる、不条理な感情です。

仏教では、怒りは全ての善行功徳を焼き尽くすとも言われており、そのような怒りを容認するようなことはありません。どんなときでも、怒りの本質がこのようなものであると知って、じっと心を落ち着け、決して怒らない努力が必要です。社会悪や犯罪、不正などを糾弾したり正したりするしても、個人的怒りをもってせず、社会の法律に則って冷静にしなければなりません。

邪見戒

「不邪見」は、その字の通り「よこしまなものの見方、考えをもたない」という戒めです。が、この戒の「よこしまな」については、多少詳しい解説が必要となります。

仏教では、「善因楽果(ぜんいんらくか)」(善い行いは、結果として楽をもたらす)」、「悪因苦果(あくいんくか)(悪い行いは、結果として苦しみをもたらす)」といった、「因果応報(すべての行いは、必ずその報いとして、何からの結果をもたらす)」を説きますが、これを信じず、否定することを「よこしま」と考えます。

この「因果応報」という考え方の延長線上には、「輪廻転生(りんねてんしょう)」がありますが、これらは仏教の大前提となるもので、これらを否定してしまうと仏教は成り立ちません。これらを否定しまえば、仏陀が修行して悟りに至ったのは「偶然」や「運命」によるなどとなってしまい、結果、人がいくら努力しても何の意味もないことになるからです。

また、「人の命はこの世限り。死んだら全ておしまい(断見(だんけん))」と考えることや、「世界も人も、その奥底には霊魂のようなものがあり、それらは永遠に存在して、決して滅びない(常見)」と考えることも、「よこしま」で極端な考えであり、悟りに至るには何の益もなさない、むしろ害のある考え方として、仏陀によって退けられています。

その他、「自分以外の何者か(神など)にすがりつき、救いを求めること」、「なにか儀式をすることによって、救いがもたらされると考えること」なども、「よこしま」な考えとします。

五戒と十善戒

以上、「身体」と「言葉」と「心」、人間の三種類の行い全てにわたる戒め、「十善戒」についてみてきました。

しかし、先に三帰・三竟で述べたように、仏教徒としての必要最低条件は、三帰すること。そして、五戒を受けることです。五戒とは、「殺生戒・偸盗戒・邪淫戒・妄語戒・飲酒戒」の五つで、まずこれを保とうと努めることが欠かせません。

ところが、日本では特に「飲酒戒」を軽んじて(無視して?)おり、酒を「般若湯(はんにゃとう)」などと呼称し、日本では僧侶と称される人々が率先し、飲酒を不当に正当化しようとする向きがありますが、論外です。勿論、仏前に酒類を供えるなどもってのほかです。まず「五戒」を保ち、その上でさらに、三つの行い全てにわたる戒めである「十善戒」を受け、保とうと努めるのが良いでしょう。(→不飲酒−なぜ酒を飲んではいけないのか−

諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教

そして、ただ戒めを保つだけでなく、その次は「自分の立場・能力に応じて、出来ること、しなければならないことを、自分自身が一つずつ、しっかり確実に行う」ことです。

まず自分を戒)めて「悪い行い」をせず、みずからが出来る「善い行い」を少しずつ、それでもしっかりと行っていけば、その心はおのずから清らかなものとなって、苦しみを離れていく。これが、諸々の仏陀が通じて説かれてきた教えです。

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