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回向文
弟子某甲(でしむこう)
盡未来際(じんみらいさい)
帰依仏(きえぶつ)
帰依法(きえほう)
帰依僧(きえそう)
弟子某甲(むこう)は、
未来際(みらいさい)が盡(つ)きるまで、
仏に帰依(きえ)し、
法(ほう)に帰依し、
僧(そう)に帰依す。
仏陀の弟子たらんとする「わたし」は、
未来の果てが尽きるまで、
仏陀を深く信じ、
仏陀の説かれた真理を深く信じ、
仏陀の教えを実践する出家僧の集いを深く信じる。
弟子某甲(でしむこう)
盡未来際(じんみらいさい)
帰依仏竟(きえぶっきょう)
帰依法竟(きえほうきょう)
帰依僧竟(きえそうきょう)
弟子(でし)某甲(むこう)は、
未来際(みらいさい)が盡(つ)きるまで、
仏に帰依(きえ)し竟(おわ)り、
法(ほう)に帰依(きえ)し竟(おわ)り、
僧(そう)に帰依(きえ)し竟(おわ)んぬ。
仏陀の弟子たる「わたし」は、
未来の果てが尽きるまで、
すでに仏教を深く信じ、
すでに仏教を深く信じ、
すでに仏陀の教えを実践する出家僧の集いを深く信じている。
「三帰(さんき)」とは、「三帰依」を略した言葉です。その三とは、「三宝(さんぼう)」を意味します。三宝とは、「仏陀(ぶっだ)」と「仏法(ぶっぽう)」と「僧伽(そうぎゃ)」の、「三つの優れたもの」を指します。
「仏陀」とは、その言葉通り、釈尊を始めとする最高の悟りを得た、諸々のブッダのことです。
つぎの「仏法」ですが、「法」という言葉には、「モノ・真理・教え・道徳」など様々な意味をもちますが、ここでは「(仏陀の)教え」と「真理」を併せて「仏陀の説かれた真理」という意味です。
つぎに「僧伽(そうぎゃ)」は、本来の原語では「サンガ」と言い、「誰か特定の僧侶」を指す言葉ではなく、四人以上で構成され、戒律を遵守(じゅんしゅ)して出家生活を送って仏の教えを守り伝え、実践する僧侶の組織を意味します。
「三帰」は、国や宗派によって用いられる言語や、若干の語句の違いがありますが、約二千五百年前の仏教誕生当時から行われています。いかなる国においても、伝統的に必ず三返唱えることになっています。
近年は、世界中の仏教徒が集まった場合には、東南アジア諸国での経典に用いられている「パーリ語」という言葉で、「ブッダン サラナン ガッチャーミ、ダンマン サラナン ガッチャーミ、サンガン サラナン ガッチャーミ」と、これをやはり三返繰り返して合唱しています。
さて、仏教徒としての必要最低条件は、「三宝に帰依」することです。そして、その上でさらに「五戒を受ける」ことが一般的です。
ですので、厳密に言えば、どこかの寺の檀家になっても、どこかの新興宗教の会費を払っても、名実ともに仏教徒になったことにはなりません。まず「三宝に深い信を起こして篤く敬い、三帰依文を唱え」、つぎに「五戒を受け、それを出来るだけ守り、みずからを慎んで生きることを宣言」すれば、仏教徒になったことになります。
「弟子某甲」とは、「仏陀の弟子たる私は」という意味で、それを唱える本人を指す言葉です。ところで、「某甲(むこう)」の「某」は、訓読では「なにがし」と読みます。本来、「某甲」の部分は、自分の名前に入れ替えて唱えるべきものなのです。しかし、大勢で唱えた場合にバラバラになるのを防ぐ為に、慣習として「某甲(むこう)」と唱えます。
「盡未来際」とは、その字が示すとおり、「未来の果てが尽きるまで」ということです。仏教では、「世界は始まりも終わりも無く、ただ生じては滅することを無限に繰り返している」と考えますので、「未来のはてが尽きる」ことはありません。つまりは「永遠に」という意味です。
もっとも、先ほど三帰依文は、「世界中の仏教徒が唱える共通した言葉」などと言いましたが、厳密に言うと「未来の果てが尽きるまで」などと言うのは、大乗だけに限られます。これは大乗の教えからくる言い方で、いわゆる小乗では、考え方の違いから、この様な言い方はしません。
ちなみに、「この人生限り」という場合には、「尽形寿盡(じんぎょうじゅじん)」という言葉に換えて唱えます。これは、人が出家して僧侶となる場合に用いられる言い方で、主に僧侶の受戒式にて使用されます。
「帰依仏 帰依法 帰依僧」とは、「仏陀を深く信じ、仏教を深く信じ、戒律を守り生活する僧達を深く信じて篤く敬う」という意味となります。
ところで、サンスクリット(インドに伝わる聖なる言葉。一般に梵語と言われる)には、「ナマス」という言葉があります。これを漢訳した言葉が、「帰依(きえ)」または「帰命(きみょう)」です。訳さずにその発音だけを漢字に写した言葉が「南無(なむ)」です。
「帰依(きえ)」というのは、「自分の身も心も投げ出して信じる」ということです。ですので、例えば「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀仏に帰依する」という意味になります。
「三竟(さんきょう)」の「竟」という字には、「おわる」・「きわまる」・「つきる」・「ついに」等の意味があります。「弟子某甲」は、「仏陀の弟子たる私は」を、「盡未来際」は「永遠に」という意味で、「三帰」の項で説明したとおりです。
「帰依仏竟 帰依法竟 帰依僧竟」は、「すでに仏陀を深く信じ、すでに仏陀を深く信じ、すでに戒律を守り生活する僧達を深く信じて篤く敬っている」ことを意味しています。
つまり、「三竟」とは、自分が「三宝に帰依し竟った」ことを表明し、確認する言葉となります。「三帰の念押し」という意味と考えていいでしょう。
法楽寺サイト制作・管理者:婆塞 覺應
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