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1.『舎利礼文』

原文

(01)一心頂礼 万徳円満 釈迦如来
(02)真身舎利 本地法身 法界塔婆
(03)我等礼敬 為我現身 入我我入
(04)佛加持故 我証菩提 以佛神力
(05)利益衆生 発菩提心 修菩薩行
(06)同入円寂 平等大智 今将頂礼

読み下し文

(01)一心に、万徳円満の釈迦如来に、頂礼(ちょうらい)したてまつる。
(02)(釈迦如来の)真身の舎利、本地(ほんぢ)の法身(ほっしん)、法界(ほうかい)の塔婆(とうば)を、
(03)我れ等が礼敬(らいきょう)すれば、我が為に身を現じ、入我我入(にゅうががにゅう)す。
(04)仏の加持(かじ)の故に、我れ菩提(ぼだい)を証し、仏の神力(じんりき)を以て、
(05)衆生(しゅじょう)を利益(りやく)し、菩提心を発(おこ)さしめ、菩薩の行を修(しゅ)して、
(06)同じく円寂(えんじゃく)に入らん。 平等の大智に、今まさに頂礼したてまつる。

現代語訳

(01)ありとあらゆる全ての優れた徳を具えている釈迦如来を最上の敬意をもって礼拝します。
(02)釈迦如来のまことの舎利と、その本体である真理と、その真理を象徴する卒塔婆を、
(03)我々が礼敬すると、我々の前に真理は顕現し、入我我入が成就する。
(04)ありとあらゆるものを、そのままに見ることによって、私は悟りを証し、仏陀や悟りに達した諸々の聖者(しょうじゃ)が身にそなえるのと同じ優れた力によって、
(05)生きとし生けるものを助け、導いていこう。そして悟りを求める心をおこさせて、六波羅蜜を行い、同じく平安の境地に、生きとし生けるものをして至らしめよう。すべては変化してやまず、定まった姿形や、しがみつくだけの価値を持たないという意味で、
(06)平等なるものであるということを悟り、それらにたいする貪り・怒り・愚かさなどの迷妄を捨て滅ぼし、心の平安に至らしめる偉大な智慧に対して、今まさに最上の敬意をもって礼拝します。

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2.解説

『舎利礼文』とは

『舎利礼文(しゃりらいもん)』とは、仏陀釈尊が御入滅され、火葬された後に残された遺骨、いわゆる仏舎利に対する、礼敬の意を述べた文言です。

これはインド出身ながら、唐代の中国にて活躍した偉大な密教の阿闍梨(あじゃり)、不空(ふくう)三蔵が、明州育王山(逝江省寧波)にて撰したものと伝えられています。不空三蔵は、中国四大翻訳僧の一人であり、弘法大師空海の師であった恵果(けいか)和尚(かしょう)の師でした。

三蔵

ところで「三蔵」とは、本来「経(きょう)・律(りつ)・論(ろん)」の三種に分類された仏典の総称です。しかし、中国で仏典をサンスクリットなどから漢語に翻訳する僧侶や、その三蔵に通暁(つうぎょう)した学徳優れた僧侶の敬称として用いられもした言葉でもあります。

特に有名なのは、『西遊記(さいゆうき)』の主人公としてとりあげられた玄奘(げんじょう)三蔵でしょうが、不空三蔵もまた、玄奘三蔵と同じく学徳ひときわ優れた翻訳僧の一人であったのです。

不空三蔵の生まれ変わり、空海

余談ですが、真言宗では、弘法大師空海はこの不空三蔵の生まれ変わりと信じられています。これは不空三蔵が入寂した日、つまり774年6月15日が、弘法大師空海の誕生日に一致するためです。

また、恵果和尚がその示寂の日、「自分達は宿縁あって遠い昔から今に至るまで、互いに師となり弟子となって法を広めてきた。次は私が空海の弟子として、日本の地に生まれ変わろう」という趣旨の言葉を、弘法大師に残されていることに由来しています(『性霊集(しょうりょうしゅう)』巻二)。

舎利とは

さて、遺骨のことを「舎利(しゃり)」と呼ぶのは、「身体(または特に仏陀や聖者の遺骨)」を意味する、サンスクリットの「シャリーラ(またはシャリーラーニ)」という言葉に由来しています。「シャリーラ」というサンスクリットの読みを、「舎利」と漢字で音写しているのです。凡人が、死んで荼毘(だび)に付されて遺骨を残しても、これを舎利とは普通呼びません。舎利は、あくまで仏陀、もしくは阿羅漢(あらかん)や菩薩とよばれた聖者の遺骨を指す言葉です。

釈尊が入滅されて荼毘に付された後、その仏舎利は、まず八つに分割されインド各地で祭られていました。しかしその後、さらに分割に分割を繰り返して、各地の仏教徒に盛んに信仰されてきました。釈尊亡き後、仏教信者達にとって、その残された舎利などの遺物(ゆいもつ)は、信仰の重要な拠り所でした。また、それを供養することによる功徳は非常に大きい、といわれるようになり、いよいよ信者達はその信仰を深めていったようです。

そして、これを祀るために盛んに塔が建てられました。いわゆる「ストゥーパ」です。これを中国で「卒塔婆(そとうば)」と漢字に音写(おんしゃ)したため、日本においても、舎利がまつられた仏塔や舎利塔のことを、「卒塔婆(そとば)」と呼称するようになりました。「塔」という言葉自体も、実はこの「卒塔婆」を略すことによって生まれた言葉だと言われています。

卒塔婆

ちなみにビルマ(現ミャンマー)では、仏塔を「パゴダ(=尊い人)」と呼んでいます。もっとも、地域や時代の変化と共に、卒塔婆の意味合いも随分と変化したため、卒塔婆には必ず仏舎利が祀られているかと言えば、ほとんどの場合「否」ということになります。もし祀っていたとしても、日本では多く水晶、もしくはその他の奇石・宝石などを、仏舎利に見立てて祀っています。または経典、真言・陀羅尼、仏像などを奉安しています。

現在の日本で「卒塔婆」と言えば、墓に添え立てる、変な形の木の板を思い浮かべる人が多いでしょう。そんな中でも、古来日本にて特に篤い信仰の対象となってきたのは、鑑真(がんじん)大和尚が日本に請来した南都唐招提寺(とうしょうだいじ)の三千粒の仏舎利、弘法大師が唐から請来し京都東寺に祀られている仏舎利、または慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)がもたらした比叡山に祀られる舎利でしょう。最近のものとしては、タイ王室から送られた、釈尊の紛れもない真骨とされている仏舎利が、名古屋は日泰寺(にったいじ)に祀られています。

仏舎利を供養することの功徳は、甚だ大きいものであることが、多くの仏典に盛んに説かれています。仏舎利、またはそれを祀る塔は、涅槃に入られた仏陀の象徴、または悟り・真理の標示(ひょうじ)であり、仏教が伝播(でんぱ)した国々で信仰の中心となってきた、最も尊いものの一つなのです。

『舎利礼文』

『舎利礼文』では、インド以来の伝統で、冒頭にて自身が信仰する対象に対して礼敬の意を表しています。

「一心頂礼」の「一心」は、言うまでもなく「心から」の意です。「頂礼」とは、いわゆる「五体投地(ごたいとうち)」のことで、仏教に於ける最敬礼を意味します。日本で言えば土下座といったところでしょうか(しかし土下座と言うと、あまり聞こえが良くないようですが…)。

自分の頭頂ならびに両手両足を地につけ、つまり五体を投げ出して、仏陀や聖者の足元を礼拝し、最大の敬意を示すのです。では何に対して「一心頂礼」するかと言えば、ここでは「万徳円満 釈迦如来」に対してするのです。

「万徳円満」とは、「ありとあらゆる全ての優れた徳を具えている」というほどの意味です。「徳」とは「優れた善良な性質。または善良なる行い」をいう言葉です。「釈迦如来」はもちろん仏教の開祖「仏陀釈尊」を指します。

真理は不変

次に、「真身舎利」は、(釈迦如来の)「まことの舎利」を意味しています。つづく「本地法身」は、少々難解な言葉かもしれません。これは「仏陀が悟られた真理そのもの」を意味します。

仏陀は人間として生まれ、苦悩し、しかし真理を悟って「仏陀(目覚めた人)」となられ、生きる事の苦しみを克服され、最後は齢八十にて亡くなられました。その肉体は、若干の舎利を残すのみで滅びたのです。

ですが、仏陀が悟られた真理は、たとえ仏陀の肉体が滅びようとも、滅びることはありません。いや、仏陀がこの世に出られようと出られまいとも、「全ては変化してやまない、うつろいゆくものである」という真理は永遠なのです。そのような不変の真理を、「本地法身」といいます(もっとも、このように「不変」と言うと、真理をモノであると実体視してしまう人が出て来てしまい、表現が難しいところです)。

仏教の信

「法界塔婆」は、「真理の現れとしての現実世界の標示(ひょうじ)たる卒塔婆」を意味しますが、やはり難解です。難解なものは難解なままに理解するのが、一番望ましいのですが、ここでは深入りするのを避け、敢えて平たく言って「本来、色や形がない真理の、象徴としての仏塔」の意としておきます。

以上、「真身舎利」から「法界塔婆」までの三句は、「仏陀釈尊のまことの舎利と、真理と、その真理を象徴する卒塔婆」という意味です。その三つを、「我等礼敬」つまり「我等が礼敬」すると「為我現身(我が為に身を現す)」と続きます。

ここで「礼敬」とありますが、それはいわゆる「なんだか解らないが信じて伏し拝む」などという意味ではありません。信じて拝むだけなら、どうにもなりません。

ここでの「礼敬」とは、「仏陀とはどういう人か、真理とはどういったものか、真理の象徴としての卒塔婆とはどういうことか」を、ある程度理解した上で信じ、真理を悟ろうと様々の努力をすることです。具体的には「戒を守って、冥想する事」です。

そのようにすることによって、何が「我が為に身を現す」かと言いますと、誰かが冥想中の自分の前に忽然と姿を見せると言うのではなく、今まで気付かなかった「真理が顕わとなる」という意味と解釈した方が良いでしょう。

入我我入

「入我我入(にゅうががにゅう)」は、「我れに入って、我れ入る」と読めますが、おそらく、これでは何のことかさっぱりわからないでしょう。それもそのはず、「入我我入」とは、密教の冥想法の一つです。

それは、行者が冥想の中で、真理の象徴としての仏・菩薩を想い描き、その仏菩薩と自分とを重ね合わせていくという、高度な冥想法です。この入我我入を通して、行者は自らの智慧を研き、その身心を高めていきます。

が、密教は誰でもが行えるというものではなく、無資格者にその内容を公開することが、固く禁じられています。当然、必要な過程を踏んでいない者は、入我我入という冥想をすることも出来ません。では入我我入が出来なければ、つまり密教を行うことができなければ、人は心の平安に達することが出来ないのかと言えば、そのようなことはないのです。

仏教は、人それぞれの立場・能力に応じて様々に説かれたものであり、修行法は唯一ではありません。密教も、数ある仏教のうちの一つでしかないのです。それが出来なければ、それによらなければ救われないと、断言される方法など存在しないのです。肝要なのは、種々様々にある教えの優劣を論じることでなく、みずからの立場・能力にふさわしい教えに従って行い、迷妄を滅ぼし、苦から離れ、平安を得ることです。

以上、「真身舎利」から「入我我入」までの六句を一文として意訳すれば、「仏陀釈尊のまことの舎利と、真理と、その真理を象徴する卒塔婆を、我々が礼敬すれば、我々の前に真理は顕現して、入我我入する」となります。

加持

次の「仏加持故 我証菩提」の「仏」は、むしろ「ありとあらゆるもの」あるいは「真理」の意と理解した方が良いでしょう。「加持(かじ)」という言葉は、「加護(かご)」と言う意味で用いられるものです。

特に日本の真言宗では、「加」を真理から我々への働きかけとし、「持」を行者から真理への働きかけとに分解して理解しています。「菩提」とは、「bodhi(ボーディ)」というサンスクリット語の音写語で、「悟り」や「智慧」を意味する言葉です。よってこの二句は、「ありとあらゆるものからの働きかけによって、私は悟りを証し」ということになります。

万法すすみて自己を修証するは悟りなり

曹洞宗(そうとうしゅう)祖の道元(どうげん)禅師が、「自己を運びて万法(ばんぽう)を修証(しゅしょう)するを迷とす。万法すすみて自己を修証するは悟りなり」(『正法眼蔵』)と言われているように、森羅万象は、常にその真実なる有り様を顕現しているのであって、それに人が気づいていないだけ。人は気づかぬが故に、自ら迷妄に迷妄を重ねて苦しむのです。悟りとは「気づき」なのです。

「以仏神力 利益衆生」の「仏」は、先ほどとは異なり「仏陀や菩薩、阿羅漢などの聖者」を意味しています。「神力」とは、いわゆる「神通力」のことです。仏陀はもちろんのこと、悟りに達した阿羅漢や、観音菩薩や文殊菩薩などの聖者は、神通力をその身にそなえているのです。「衆生」とは、「生きとし生けるもの」を意味する言葉です。これをまた「有情(うじょう)」や「含識(がんじき)」などとも言います。

ちなみに、仏教では、植物を「衆生」の中に含んで考えていません。ですから「生きとし生けるもの」といっても、植物は含まれていません。もっとも、だからといって、植物を大切にしないということは決してなく、むしろとても大切にします。以上、二句をまとめますと「仏陀や悟りに達した諸々の聖者が身にそなえるのと同じ神通力によって、生きとし生けるものの助けとなり」となります。

神通力

ここで注意すべきことが一つあるのですが、「神通力」というものを仏教が認め、経典に仏陀や諸菩薩、諸阿羅漢の不思議な事績が、様々に伝えられているのは確かです。が、同時にそのような不可思議なことをやたらと行使し、また人に吹聴して廻ることを厳に戒められてもいます。世間には、「私には神通力がある」、「あなたは先祖の供養が出来ていない。だからそんな不幸に見舞われる。あなたにはわからなくとも、私にはわかる」といった類の物言いをする人があります。

人の理解を超えた奇妙なことを口にしたがる人を、頭ごなしに否定し、毛嫌いする必要はありません。ですが、そのような人からは出来るだけ離れて近づかない方が無難でしょう。そのようなことを周囲に吹聴して廻ったり、無暗に信じ込んでしまったりする人の末路は、決して良いものではありません。

また、過去の数多(あまた)の高僧、大徳達の中に、神通力だの霊能力だの予言だのといったことを、無暗に公言した人はいません。積極的に肯定した方さえ殆どおられず、むしろ皆、そのようなことを口にし、不可思議なことをひけらかすことを、厳に戒められています。

六波羅蜜

「発菩提心 修菩薩行 同入円寂」は「菩提心を発さしめ、菩薩行を修し、同じく円寂に入らん」と読みます。「菩提心」は「悟りを求める心」を意味しますが、そこには生きとし生けるものの助けとなることへの決意も含まれます。

「菩薩行」は、具体的に「布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の六つ完全な行い」、いわゆる「六波羅蜜(ろくはらみつ)」を意味します。

「布施」とは、みずから持てるものを他者にほどこすこと、他者の命を奪わないこと。「持戒」とは、五戒や十善戒を守ること。「忍辱」とは、逆境に対して怒らず怨まず、心を平静に保つこと。「精進」とは、ひるまず努め続けること。「禅定」とは、冥想すること。「智慧」とは、経典に説かれている真理に従ってモノを見、そのありのままを捉えることです。

「波羅蜜」とは、原意は「完全な・最高の」という意味の言葉で、伝統的には「悟りに到る」という意味とされています。

「菩薩」とは、サンスクリット「bodhisattve(ボーディサットヴァ)」を漢語に音写した「菩提薩タ(ぼだいさった)」を略した言葉で「悟りを求める衆生」、平たく言うと「悟りを得るために努力する人」を意味します。悟りを目指して六波羅蜜を行い、全ての生けるものを助けようと修行する者のことを、「菩薩」というのです。

「円寂」とは、「涅槃」を意味する言葉で、「みずからの苦しみの根源たる、貪り・怒り・愚かさの三毒が全く滅した心的境地」、「何ものにもとらわれることのない平安な境地」をさしています。よってこの三句は、「悟りを求める心をおこして、六波羅蜜を行い、(仏陀や聖者が達したのと)同じく平安の境地に(皆共に)至ろう」と意訳できます。

平等の意味

最後の二句、「平等大智 今将頂礼」は、「平等の大智に、今まさに頂礼したてまつる」と読みます。

ここでいう「平等」とは、「全ては移り変わるもの。様々な条件に従って生まれ、また滅びゆくものであり、永遠に定まった姿形や性質はない。全ては等しく陽炎、夢幻のようなもの。水面に映った月のようなもので、必死に求め、しがみつくだけの価値は無い。その点で全ては平等である」という意味です。「大智」は、真理を見通す智慧、モノのありのままを認識する力のことです。最高の悟り、を意味するとも考えて良いでしょう。

よってこの最後の二句の意を示せば、「この世の全ては定まった姿などない、しがみつくだけの価値を持たない、平等なるものであることを悟り、貪り・怒り・愚かさなどの迷妄を捨て滅ぼして、心の平安に至らしめる偉大なる智慧に対し、今まさに最上の敬意をもって礼拝します」となります。

法楽寺サイト制作・管理者:婆塞 覺應

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