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ここでは、「真言宗のお経」と題してはいますが、真言宗が所依の経典としている、『大日経』や『金剛頂経』あるいは『理趣経』などについては一切触れていません。真言宗の教学面、あるいは密教についても、ほとんど触れることはありません。
副題に「在家勤行式解説」としているように、あくまで真言宗の『在家勤行次第』や、四国八十八カ所霊場や西国三十三観音霊場などで一般的に用いられている、「勤行次第」にある経文の原意に沿うよう逐語的に解説。
最後に、要約してあまり仰々(ぎょうぎょう)しい文章とならないような意訳をつけ、仏教についてほとんど知識が無い方でも、少しずつでもご理解して頂けるようご紹介しています。
また、学問的な解説や、ただ客観的比較的にどうこうといったような傍観者的解説は、ここでは基本的にしていません。仏教に信仰を持っている方はもとより、特に信仰は無いが興味があるといった方を対象とし、あくまで主体的に実践されることを前提に、仏教を理解して頂くことを目的とした解説をしています。
さて、いきなり率直に言ってしまいますが、仏教は難解な宗教です。
近年は「猿でもわかる仏教」 などと言った調子の、あたかも仏教は簡単でわかりやすいかのような表題(ひょうだい)がつけられた、「身近に感じられて、親しみやすく、わかりやすそう」な解説書が、書店の棚を賑(にぎ)わすなどし ています。
しかし、敷居が高くてお高くとまっているというのではありませんが、 事実として仏教は、そう簡単に理解出来るようなものではありません。
仏教が難解で、人の安易な理解を許さないものであることは、仏教の教祖である釈尊が、今から時をさかのぼること約2500年前に、インドは菩提樹の下で悟られ、仏陀となられたときの消息を知れば、おのずから納得できることでしょう。
釈尊は、悟られた当初、その悟られた真理を、ただちに世の人々に説き広めようとはしなかったという説話が、ごく一部ではありますが、経典に伝えられています。
その伝承によると、自分の悟った真理はあまりに深淵であり、世間で欲のままに生きている人々には理解しがたく、説法したとしても結局は徒労(とろう)に終わるだろうと、仏陀は独り静かに生涯を閉じようとされたのでした。
しかし、そんな釈尊の前に、梵天(ぼんてん)というインドの神が現れて、世間に釈尊の悟った真理を伝えることを懇願(こんがん)します。これによって、ついに釈尊は、真実に対する眼(まなこ)あり、耳ある人の為に説法することを決意された、と多くの経典が伝えています。ちなみに、このエピソードを「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」と言います。
このようなエピソードを聞いた途端に、「非科学的だ」「とうてい事実としては受け取れない」などと考える人もいるでしょう。または、「これらエピソードは、当時なんらか似た事実があり、それを神話化して形成されたものなのだろう」と、推測する人もいるかもしれません。
しかし、これを無理やり現代的感覚をもって、あるいは当時の感覚を推測して解釈する必要などはありません。信じられなくとも、まずは「その話のまま」を知っておけば良いことです。
さて、結果、それからおよそ二千五百年を経た今も、我々は仏陀の教えに触れることが出来るのですが、それが難解であること自体は、なんら変わりありません。むしろ、2500年という時間を経て、そして、インドから中国・朝鮮を経て日本に仏教が伝わったことによって、ますます難解となってしまったと考えて差し支えないのです。
世界の科学者や哲学者の中には、「真理はシンプルである」との信念のもとに日々研鑽している人があるようです。確かに、真理はシンプルかもしれません。しかし、シンプルであるが故に、むしろ理解困難なこともあるようです。シンプルであることが、すなわち理解がたやすいと言う事にはならないのです。
仏教が時を経てますます難解になっていった事情には、仏教が様々な風土や慣習などが異なる土地を経て広まったという事情も勿論あるでしょうが、「シンプルな真理」を理解しようと、わかりやすくしようとした結果、難しい説明となってしまった、という場合もあったかもしれません。
しかし、それはあくまで理解が困難であるというのであって、決して理解出来ないと言うのではありません。もっとも、仏教を理解するということ、仏教の説く真理を知るということは、実践をともなってこそ深まるものです。
仏教は実践すること無しに理解出来るものではないことは、念頭に置いて頂きたく思います。
時としてその表現があまりに簡単な為に、全くどういうことかわからないことがあります。そこで理解しやすくする為に、話を込み入らせて難しくしたほうが良い場合もあります。
なんでも自分の理解できない難しいことは悪くて、理解できる簡単なことが良いなどと考え、全てをお気軽お手軽の、単純な理解で済まそうとする今日的態度。ある意味では軽薄な態度で、これらを理解しようとすれば、たちまち壁に突き当たるか中途半端な理解に留まるか、はてまたは、あきらめてしまうことになってしまうかもしれません。
また、ただ頭で理解しただけならば、現実と乖離(かいり)した、観念の世界でのお遊戯に過ぎなくなってしまう可能性が高いでしょう。
実際、「わかっちゃいるけど、やめられない」などと言った物言いが世間ではしばしば言われていますが、これは「(わかったつもりで、)わかってはいないから、やめられない」のです。「わかったつもり」になること、させることは、比較的簡単だと言えます。TVコマーシャルなどその良い例と言えます。
しかし、これは何にでも言えることだと思いますが、一つのことが「わかる」ようになるには、相当な時間と努力が必要です。
相当な時間を掛け、相応の段階を経てじっくり理解していこうという決意と態度、そして優れた智慧があり、正しい知識を持って、口だけではなく実行している人との縁があれば、仏教が実に明晰な論理性と実践体系をそなえ、しかもそれを自分自身で確かめることが出来る、優れた道であることが理解できるでしょう。
そして、仏教を理解することが、日本という国の歴史・文化・伝統や、ひいてはアジア諸国の文化や思想をも知ることに繋がり、予想以上に多くのものを得ることにつながるかもしれません。いや、なによりも自分自身にもたらされる利益は、きっとはかりしれないものとなるでしょう。
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しばしば、仏前や先祖が祀られた仏壇の前などで、「経を読む」「お経を上げる」「お勤めをする」などと言って実践されている方がおられます。
しかし、実際の所、自分たちが唱えている経典にいかなる意味内容のことが説かれているかを充分了解して、読経を行っている方はほとんどいないようです。
経典とは、ブッダが人々を悟りに導くために説かれたものです。にもかかわらず、「仏様にお経をあげる」となると、知らぬ事とはいえ、それこそ「釈迦に説法」と言えてしまうのです。
また、口をパクパク開閉し、訳もわからぬ言葉をブツブツと発するだけなら、九官鳥やオウムでも出来ることです。「お経を聴くと、なぜだか心が安らぐ」などと言う人も中にはいます。が、下手な読経を聴くより、鳥のさえずり、風にそよぐ草木の音色の方が、遙かに耳に心地(ここち)良いでしょう。
ただ声を出すことが重要だというのであれば、カラオケでも行ってお気に入りの歌でも唄えば、日頃のストレスも一時的にしろ発散されて、よほど有意義です。もちろん、個人の嗜好ですから、「意味なんかどうでも良い。私は読経を聞くことがなによりも好きなのだ」というなら、それも良いでしょう。しかし、仏教からすれば、そのようなことに意味などありません。
世間には、「合掌するだけでありがたい」などと言って悦に入ってしまう人もいますが、合掌など猿でも出来る所作(しょさ)にすぎません。なにがありがたいというのでしょう。
もともと合掌など、挨拶の方法、表敬の手段くらいのものでしかありません。合掌は、日本で言うお辞儀のようなもので、礼儀作法の一つでしかないのです。よって、まったく意味など無い、とまでは言いませんが、それらを行ったところで、なにがどうなるようなものではないのです。もちろん、だからといって、「礼」を否定などしてはいけません。
しかし逆に、信じる以前、読経などする以前に、まずブッダの教説として伝えられてきた経典や文句が、いかなる意味内容を持つものであるかをしっかりと理解し、また、それらが何を目的としてあるかを知ったならばどうでしょうか。仏教が敬して合掌するに値(あたい)し、信じて行ずるに価する教えであることが、十分に納得できた時はどうでしょうか。
その時こそ、単なる作法や慣習、迷信のようないい加減なものとしてではなく、明確な意義あるものとして読経などを行い、仏教を実践していくことが、出来るようになると思われます。
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ところで、これはよくあることなのですが、西洋の思想に結局なじめなかった知識人などと言われる日本人が、今更ながら仏教の思想に触れて感銘を受け、さかんに仏教の思想の素晴らしさを、テレビや書籍の上などで喧伝(けんでん)するも、実際生活や社会にそれが反映されることなどほとんどなく、単なる観念の世界に留まってしまっているということが。いや、その当の本人でさえ、本当に理解し、実践しているかどうかさえも怪しい場合があるようです。
さまざまな分野の知識を得ることは、その人の見識を深め、視野を広げる上で有益な場合もあるでしょう。けれども、なにかみずからの為になる、優れたことを知ったとして、それを口だけで称賛しながら実行しなければ、それはただの知的好奇心を充(み)たすだけの娯楽、知的遊戯の一種に過ぎません。しかし、仏教は知的遊戯の対象でも、知的娯楽の一種でもないのです。
また一方では、耳ざわりだけは良いものの、中身はからきし無い言葉だけをいたずらに列挙して虚飾した、いわば商品化された仏教が、最近盛んに持てはやされているようです。
無思考の状態を「癒し」「安らぎ」だと言い、見つめるべき現在の自分を見ずして、どこか外に「自分探し」に旅立たせることを推奨。あるいは、「人間だもの」などと安易な現実肯定の言葉を持てはやし、むやみに「ありがたい」・「生かされている」等と口にして、不当に他者に依存する事を正当化したりすることが、仏教であるかのように言われているようです。
はじめから、知的好奇心を満たすためだけ、あるいはただその人の常識として、仏教を学んでいる人もいるでしょう。また、世間のコロコロ変わる流行に身を任せているだけで、別段仏教そのものに興味があるわけでも、真剣にこれを学ぼうと思ってはいない人もいるでしょう。それらは個人の問題ですから、そのような人はそれでかまいません。
しかし、きっかけはどうであれ、仏教を真剣に学んでみる気が起こったならば、じっくりと仏教を学んでみると良いでしょう。仏教では「信仰が何より大事」などと、いきなり言うことはありません。そして、しっかりと筋道立てて考えた上で、それが優れていると自分で納得出来たならば、次はそれを実行して日常生活に反映させることが、何よりも大切なこととなるのです。
そもそも、世間で言われている信仰と、仏教でいうところの信仰とでは、異なる部分があります。これを仏教では「聞思修(もんししゅ)」の「三慧(さんね)」と言います。いきなり信じて伏し拝む必要などありません。また、仏教の経典について、多くの事を知る必要もありません。例えその知ったところは少なくとも、それを実行してみずからそれを確かめていくことこそが、まず最も肝要なのです。
『般若心経』は、現在の日本で最も普及しており、親しみのある経典でしょうが、いきなりこれを理解しようとするのはほとんど不可能です。算数が出来ない人が、いきなり数学をやろうとするようなものです。
実際、なんとなく興味をもったという人が、日本で非常に親しまれている『般若心経』とはどんなものかと、様々な解説書を読んでみたけれどさっぱりわからなかった、などという事はよく聞く話です。それら多くの解説書の著者ですら、実際に解って書いているのかどうか、かなり怪しいことが多いようです。
また、自分が理解出来ないといって、しまいには「『般若心経』で説かれていることは虚構」「『般若心経』は間違い」とまで主張し出す人も出てきてしまいます。
よって、まずは「三帰(さんき)・三竟(さんきょう)・十善戒(じゅうぜんかい)」など簡単な経文の意味内容の解説、あるいはブッダの生涯の紹介を通して、少しずつ、段階的に理解していただきたいと思います。
法楽寺サイト制作・管理者 婆塞 覺應
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