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1.解脱

解脱とは

写真:サーンチー第一仏塔(インド)

「解脱(げだつ)」とは、一つには、際限なく生滅(しょうめつ)を繰り返す「輪廻転生(りんねてんしょう)」から抜け出す事であり、もう決して再び生まれなくなることを意味します。

また、みずからを苦しみに導く種、原因である自みずからの愚かさを知って、それに打ち勝ち、再び愚かな行いをなさなくなることも「解脱」と言います。

この意味では「悟り」とも言いますが、この場合、一回解脱すれば良し、悟ればお仕舞いなどといった、お手軽なものではありません。

常日頃みずからを律し、苦しみの原因となる悪しき行為、愚かな行いをなさないよう、よく気をつけて怠ることなく生活したならば、その日々の中にこそ「解脱」があって、それは一回こっきりのものではないのです。途中で「もうこれくらいで良いだろう。充分だ」と、それまで怠ることがなかった生活を放棄してしまえば、ただちに元の木阿弥(もくあみ)になってしまいます。

よって、この意味での「解脱」とは、なにかとてつもなく高邁(こうまい)で達しがたい、不可思議で神秘的な体験や境地などではなく、私達の努力次第で現実に達し得る、とても現実的なものです。

さらにまた、冥想を深めていく過程で、尋常ならざる不可思議な体験をする場合があり、これを解脱という人もあります。もっとも、それはたいていの場合は妄想、いわゆる「魔境(まきょう)」でしかありません。よって、やたらと人に不思議な出来事を吹聴する人を信用するべきではありません。

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2.涅槃

涅槃とは

写真:釈尊涅槃像(インド・クシーナガル)

「涅槃(ねはん)」とは、先ほどの「解脱」とほぼ同じ意味なのですが、第一義としては、みずからの「貪り」・「怒り」・「愚かさ」という、三つの根本的煩悩(ぼんのう)が、まったく制されて止滅(しめつ)した状態、その境地をいう言葉です。

「涅槃」とは、どこかに遠くにある、永遠の安楽を受ける死後の世界などを指す言葉ではないのです。生きた人間が、あらゆる迷い、愚かさから完全に解脱した状態を「涅槃」と言うのです。

もっとも、そのように完全に心を束縛する煩悩から解脱した聖者(しょうじゃ)が、死去・入滅することを「完全な涅槃」と言ったりもします(これを「般涅槃(はつねはん)」と言います)。

ですから、ただ普通に日常を生活していた者が、病気や事故や老衰などで死んだとしても、それによって解脱あるいは涅槃、ましてや成仏など、決してすることはありません。また再びその者個人の生前の行いの如何(いかん)によって、あくまで自業自得でどこかに生まれ変わり、この苦しみの世界を生き続けることになります。

ですから、いくら遺族たちがねんごろに葬式を挙げ、真心から供養したからといって、死者が涅槃を得ることなど到底出来ません。葬式とは、死者のための儀式などではなく、残されたも者のための、多分に社会的な儀礼でしかないのです。

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3.成仏

成仏とは

写真:釈迦牟尼降・魔成道像(ブッダガヤ大菩提寺本尊・インド)

「成仏(じょうぶつ)」とは、文字通り「仏陀に成る」ことです。

では「仏陀」とはなんでしょうか。仏陀は「仏教の教主」であることは言うまでもないでしょう。しかし、仏教には、「小乗(しょうじょう)」と「大乗(だいじょう)」という、二つの立場があります。

それぞれ仏陀という存在をどう見るかの解釈を異(こと)にしていますので、なかなかこの説明は容易ではありません。そこで、小乗と大乗とで共通して言える、「仏陀」という言葉と、その存在の説明をいたしましょう。

仏陀という言葉

仏陀とは、「目覚(めざ)めた人[男]」を意味する、インド古来の聖なる言語サンスクリットで「buddha(ブッダ)」という言葉を、中国でその発音だけを漢字の読みに当てて写しとった言葉です。これを「音写(おんしゃ)」と言います。

「buddha(ブッダ)」の音写語「仏陀」の、「仏」という漢字は、本来は「佛」の字を用いました。これは、ブッダという言葉を音写するときに初めて造られた漢字です。偏の「人偏」は、文字通り「人」を意味します。旁(つくり)の「弗(ふつ)」は、「非」と同じで「否定」を意味します。

「佛」とは、「人に非ず」という意味の漢字なのです。

当時の中国では、ブッダを「人とは違う存在」と捉えていたことが、この文字に現れています。もっとも、「buddha(ブッダ)」を、その原意どおりに「目覚めた人」と漢訳した、「覚者(かくしゃ)」という言葉もあります。

ブッダという存在

ブッダとは、「目覚めた人」という意味の言葉ですが、何に目覚めた人なのでしょう。それは、「真理に」目覚めた人であります。

では、その真理とは何か、という事が問題になるでしょう。それは、一応まで簡単に言うならば、「すべては数々の原因と条件によって形づくられたもの。不変なモノなどなにもない」という真理です。しかし、それは、このような簡単な言葉で語り尽くせるものではないので、あくまで「一応」の説明です。

さて、ブッダという存在は、まず「仏教の教主」です。ブッダは、「モノの真の姿、うつろいゆく世界の真相をはっきりと観て、完全なる智慧を獲得し、迷いと執着を断ち切って苦しみを滅ぼした聖者」であり、その智慧に到る術、「苦しみ」を滅する道を、広く人々に開示した存在です。よって、仏教の教主として尊敬され、偉大な智慧の人として崇拝されています。

仏教は、「救い主」などの絶対的存在としての神を否定し、あくまで「自分自身が自分自身を救う道」を説く宗教ですが、時として、ブッダを「キリスト教など一神教における全知全能の神」・「救い主」の様に考え、信仰している人も僧俗問わずあります。

仏教者であると言っていても、その実、仏教についてほとんど知らない、などと云う人は日本に限らず世界各地に、大変多く存在しています。

救わないブッダ

仏陀とは「目覚めた人」であり、「救いにいたる道を開示した人」です。そして、その道は、自分自身が生きている時にこそ歩み、達成されるものです。

よって、ある人が死んだ後、遺族によって葬式を挙げられたり、仏壇や墓石の前に供物をあげて読経したり、何事かの儀式をされたりしても、その人が救われること、成仏することなど決してありません。ブッダが人を直接救うという事は、決してないのです。

しばしば、霊能者と称する人、もっとも最近では「スピリチュアル・カウンセラー」という横文字に変わって、その怪しげな語感を誤魔化してしまったようですが、彼らによって「あぁ、あなたのご先祖さんは成仏していないですね。あなたのことを大変心配なさっています。墓参りと仏壇での供養を欠かしてはいけません」、「大丈夫、毎日仏壇の前で手を合わせ、墓参りなどしなくとも、あなたが毎日を感謝の心をもって、懸命に生きていれば、成仏していないご先祖さんも、安心してきっと成仏します」などと言われているようです。

断言します。そういうことは決してありません。

巷間、しばしば耳にする「仏様が見守って下さる」「仏様がバチを当てる」などということも、ないのです。ただ、なにか崇高なものの存在を信じて日々生活し、それによってその人の行いが善くなるのであれば、そう考えても良いでしょう。しかし、それに救いを求め、祈りすがったところで、求めるものが得られることは決してありません。

祈らない仏教徒

この世に救い主の存在、絶対的・超越的な存在など認められない、というのが仏教です。そのような世界において、自分がいかに正しく生き、そして自身の努力によって自分を救わんとするのが、仏教です。

「祈りは尊い」「念ずれば花開く」などという言葉を、無批判に良いもの、正しいものとして受け止めている人は多いようです。しかし、祈りなど、それ自体決して尊いものではありません。人類の歴史を見れば、どれだけ多くの人が祈りつつ殺し、祈りつつ残虐な行為の限りを尽くしてきたか。そして、それらを、どれほど祈りによって正当化してきたか。

念じなくても原因と条件さえ整えば、開く花は開くのです。その原因と条件のなかに、「祈り」などありません。

この世に救い主としての「全能の神」など存在しない。そして、ブッダは誰も救いません。いや、他人を救うことなど誰も出来ないのです。ブッダは、ただ平安への道を説き示されたのです。ですから本来、仏教徒は祈りません。

ただ、すべての生命の幸福を「願い」つつ、日々みずからを律して正しくあろうと行動するのみです。(関連コンテンツ→明恵上人『阿留辺幾夜宇和』「人は我祈りの為とて」

法楽寺サイト制作・管理者/婆塞 覺應

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